(97)・・・学生運動・・・
昭和41年に大学に入ったので、まさに学生運動の時代だった。校舎や教室を封鎖し、授業料値上げ反対から、無給インターン制反対、ベトナム戦争反対、エンタプライズ入港拒否、沖縄闘争や日米安保条約粉砕から三里塚闘争への連帯など、「造反有理」ののぼり旗が、どこにも立てられていた。
民青(日本共産党の学生組織)と三派全学連(革共同中核派、ブント系社学同、社青同解放派)が対立し、後には、ノンセクトラジカルといって、デモや騒乱に参加し、しかし、セクトには入らない者が、全共闘運動を担って行った。
同級生にも、先輩後輩にも、様々な連中が居て、毎夜毎夜、誰かが誰かをオルグする(組織への勧誘)のが日常だったし、大学などそっちのけで、徹夜の議論に明け暮れた。皆が皆、この国の将来を憂え、それなりの情熱に溢れていた。
身近かな男が、中核派だったから、そっち系のデモや封鎖に参加したり、何派であろうと、デモには警察や右翼が襲い掛かるので、歩道の敷石を剥がし、石礫に変えて、騒乱の中に巻き込まれたりした。当時の市民には、学生を応援する者も多く、逃げる時には、商店や倉庫に匿ってくれたものである。
そんな日々だったが、結局どこにも属することはなかった。ステレオタイプのスローガンや、画一的なシュプレヒコールに「本物」を感じなかったし、極論すれば、当時の学生運動がはしかであり、流行りものである限り、熱が冷めるのは目に見えていた。20歳の自分は、燃えるものが見つからず、生きていること自体が虚しくて、毎日をさまよっていたのだ。
全共闘からは、大学教授、タレント、評論家、国会議員、経営者、病院長などが、どんどん生まれ、あれほど反対運動をした成田空港から、平気で海外旅行に出かけたりするのだから、あまりに情けないことになった。もちろん、内ゲバで互いに殺し合い、市民まで巻き込んで、孤立主義的武装闘争に散った連中も多かった。
当時も今も、反体制スローガンなら、なんでも賛成であり、革命を成就させねば…と真剣に思っているから、全共闘運動に反対したことはない。一生懸命さが羨ましい限りだったが、しかし、とうとう乗れなかった。
毎日の生活それ自体が、革命に繋がるものでなければ、その集合体としての反体制運動は、弱いままだろう。それは、その後に思ったことである。日本低国を転覆させねば、という情熱は、全く冷めることなく持ち続けているが、それと併行して、あの頃の、厭世観…「生きよ堕ちよ」(坂口安吾)…アナキズム…ニヒリズムなどが、身にまとわりついて今に至る。20歳の自分と74歳の今とが、ほとんど変わっていないのだ。
一応、ゲバラに憧れたんだがなぁ。チェッ!進歩が無いのう…。
シェイクスピア『テンペスト』の有名な一節。
われわれ人間は/夢と同じもので織りなされている はかない一生の/仕上げをするのはゆめなのだ
(小田島雄志訳)
吾らは夢と同じ糸で織られているのだ、ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる…
(福田恒存訳)