(94)・・・病者天国・・・
味酒心療内科の5階に、堀江の患者自治会から、仲間がやって来て、徐々にたまり場が出来て行った。そこで、昭和55年の9月に、患者会ごかいが立ち上げられた。互会でもあり、ゴカイのようなちっぽけな生物でもあり、誤解や偏見と斗う意味もあり、5階にあったから、そう呼ぶようになった。
『わしらの街じゃあ』(社会評論社)に詳細は書かれているが、そこからは、全員で自分たちの世界を造るのだと、「働かない権利」を主張しながら、ひとりひとりよく働いた。社会復帰どころか、反社会復帰を目指したのは、堀江での苦い体験を踏まえていた。
次に、おんぼろアパートを借り切って、そこを丸々改造し、大広間や卓球室、カラオケ部屋、会議室などを作った。会員は、最大60名近くになり、大食堂の食事(200円食堂)も20数名が食べてから、次のグループが食べるようにして、とにかく大勢の人がやって来た。
ゴミ箱のごみを捨てるだけの人、コーヒーを買いに行くだけの人、料理だけ、大工だけ、パソコンだけ、「ごはんですよ~」と言う声かけ係…と言うように、烏合の衆でも、皆が集まると、凄いパワーを発揮できたのだ。誰もが重度だったが、独語空笑しながらでも、ごかいでは「普通」だったから、気楽だっただろう。
皆が、精神病院で凄まじい体験をしていて、親子、家族から絶縁された孤独から、大家族のごかいにやって来て、少しは癒された人も多かっただろう。その後、「へんな古本屋」「へんなジュース屋」「へんなタバコ屋」もやったのだが、ジュースとタバコ屋は、自分たちが客のほとんどを占めていた。「タコが自分の足を食うとるがな」と、笑い合ったものである。
濛々たる紫煙が立ち込め、奥の人が見えない部屋で、好きなだけタバコを吸って、みんなが穏やかに死んで行った。嫌煙主義者が見たら、かなり批判されただろう。しかし、娯楽も遊びも知らず、やっと手に入れた自由の中で、タバコとコーヒーが皆の安らぎだったから、僕は何も言えなかった。
ボケた婆さんや、小便やウンチを漏らす仲間も、皆がそこに居て当たり前だった。助け合うことを敢えて目標にせずとも、十分に互会だった。
その他にも、街頭カンパをやったり、廃品回収をやって、資金を集めた。伊方原発反対のデモをやったり、精神病院の不正糾弾のビラまきをしたり、遂には、テレビの取材(NHKや報道特集)に応じたり、本まで出した。その後、自前でビルまで建ててしまったのだ。
そんな影響から、県外から自立を目指して参加する者も多く、学生や教員、活動家やボランティアなど、協力者、来訪者は後を絶たなかった。
皆が年老いて、一人欠け二人欠け、弱体化したごかいは、最後は、6名くらいになってしまい、そのうちの一人が誤嚥で急死してから、まもなく37年の命を閉じてしまった。社会的弱者であったが、団結したら、強かった(強い気がしていた)。「つわものどもの夢のあと」は、もうその面影すら見られない。
そんな素晴らしい仲間の中で、ひとり健常者(&医者)である自分は、いつも浮いていた。それでも、ずっと受け容れてくれ、毎日の晩御飯を食わせてもらいながら、どんなに助けられて来たことか。皆に感謝してもし切れない。
皆には、あれもこれも学んだ。教科書には絶対書いてない「病気」の裏表など、貴重過ぎて、人には容易に伝え難い。そして、皆が従容として亡くなって行った姿こそ、最も忘れられない。わがまま放題?の病者人生の最後は、実に穏やかで、飄々とした旅立ちだったのだ。(さふいふ人に私はなりたい…宮沢賢治)
もちろん、人間のコミュニティである限り、悲喜劇も多く、地獄もたくさんあって、呑気に「天国」などと言っていては叱られそうである。あくまでも、彼ら彼女らの主治医として、至らぬことが多すぎた。ここでは書けないような事柄がいっぱいある。
いつも年寄りの昔語り、思い出話を書いているようだが、賢明な読者なら、その意がお分かりだろう。「病気を抱えながら、なんで働け働けと言われるんぞな」「再発したら、精神病院じゃがな。行ったら、もんて来ん仲間が多かったけん、いやじゃわい」「差別と偏見を無くしましょう…じゃの言いながら、お世話する健常者、お世話される病者と、上下関係があるがな。うっとおしい」
つまり、模索すべきものは、病者障害者の自立と自治であろう。作業所やデイケアが花盛りになって、それで満足している精神医療業界だが、ちっともいいと思わない。もう一度やり直せたら、やっぱり患者会運動に参加したい。一体それ以外に、対等性を獲得する(病者解放の)道があるだろうか?
(余談)ごかいには、黄色に鉄格子の旗まであった。しかし、「ごかいの歌」は存在しない。でも、僕がいつも思い出すのは、常に流れていた『釜ヶ崎人情』・・音楽性幻聴のように頭の中に刻まれている。
『釜ヶ崎人情』 歌:三音英次 作詞:もず唱平 作曲:三山敏
立ちん坊人生 味なもの※
通天閣さえ 立ちん坊さ
だれに遠慮が いるじゃなし
じんわり待って 出直そう
ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎
身の上話に オチがつき
ここまで落ちたと いうけれど
根性まる出し まる裸
義理も人情も ドヤもある
ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎
命があったら 死にはせぬ
あくせくせんでも のんびりと
七分五厘で 生きられる(※腹八分には少し足りないが、の意味)
人はスラムと いうけれど
ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎『釜ヶ崎人情』
ここは天国 ここは天国 患者会
※立ちん坊…学生時代によくやった。決まった場所で待っていると、土木工事の業者が、トラックで何人かを拾ってくれる。多くて、拾われない日もあった。行く先は、高速道路や西宮球場の工事だった。ネコ車という一輪車に、セメントを載せて、朝から晩まで運び、帰りには日当を貰って、電車で帰った。ネコ車は、相当に難しく、フラフラしていて、よく怒鳴られたものである。その割には、「阪神高速は、わしらが作ったんぞ」などと、つまらぬ自慢をしたものだ。