(21)・・・汽車通学・・・

通院中の子どもには、学校へ行こうとすると、腹が痛み、下痢しやすい子が多い。
実は、僕自身もそうだった。
学校はイヤじゃなく、遊びに行くんだから、ストレスを感じてはいなかった(つもり)。
しかし、汽車に乗っていると、急にもよおして来て…途中でちびったこともある。
そういう時は、松山駅で降りず、Uターンして帰宅したのだが、
洗ったらすぐに行け!と怒鳴られたものである。気合が足りんから・・という発想である

当時の汽車通学は、毎日が試練だった。なにしろ、ベビーブームの頂点世代である。
新田、聖稜、済美、松商、松工、女子商(→聖カタリナ)、東雲、松山北などを目指して、
伊予和気から、松山に向かうのだから、8両編成の蒸気機関車も、遅いのなんの。
駅の長さの倍くらい長いから、1,2両目や7,8両目などは、駅を通らず、道から乗り降りした。乗ると言っても、今治、菊間、北条、堀江などから、大量に乗り込んでいるのだから、伊予和気なんぞ、乗るところは無い。デッキにぶら下がったり、連結器に乗ったり、窓から入るやつもいた。

和気→三津浜→松山と、たった15分足らずの行程だったが、毎日煤で汚れて、服もかばんも真っ黒だった。

6年間、毎日のように通った蒸気機関車も無くなり、子どもたちも減って、あれほど賑わった伊予和気駅も、今や無人駅である。

通学仲間に,イダテンという同級生が居た。
しかし、中学3年のある日から、急に乘って来なくなった。教師に聴いても、何も教えてくれない。そうこうしているうちに、半年が経ち、イダテンが死んだという知らせ。白血病だったらしい。

身近な人の死を感じたのは、これが最初だった。
「愛と死を見つめて」(青山和子)が流行ったり、「ある愛の詩」という映画も、後に流行ったが、最近で言うと、「世界の中心で愛を叫ぶ」も、それらの焼き直しのようなもの。

4年後の17歳になって、僕は神戸の青谷に居た。イダテンの実家があると聞いていたから、行けば何かが分かると思い、しばし街をうろついたが、何も分からなかった。
「こんな小綺麗な街から、松山のようなド田舎に来て、さぞかし心細かっただろう」…
そう思いながら、無力感や虚無感に押し流されて、僕の楽しくない神戸生活が始まったわけである。