(208)・・・高校野球マニア・・・

 小学校低学年の頃から、高校野球が好きだった。当時は、松山商業中心の時代だったから、松商が甲子園に行こうものなら、町中から人の気配が無くなるくらいだった。生まれ持ってのへそ曲がりゆえ、僕はアンチ松商であり、西条高校を応援して周囲の顰蹙を買っていた。藤田元司(巨人)~池西増夫のバッテリー時代、青野修三(東映)の時代、そして、土岐&合田の両エースで全国優勝した1959年(12歳時)は、ラジオにかじりついて聞いていた。

御承知のように、高校野球は変わってしまった。PL学園や私大付属高校が、中学生をスカウトし、有名野球学校が登場してから、地方の公立高校の出る幕が無くなってしまった。今度の夏の大会も、ほぼ全試合で、僕の予想が当たってしまった。番狂わせなど滅多に起こらない。一つだけ、予想を外したのは、下関国際高校→大阪桐蔭である。その結果、残った仙台育英が優勝するのは、火を見るよりも明らかだった。

下関国際高校の、ダウンスウィング&ピッチャー返しの徹底が素晴らしかったし、指導者のリードやチームワークの明るさが印象に残った。なにしろ、相手の大阪桐蔭は、4~5人がプロへ行くようなチームだったから、一発勝負の醍醐味が凝縮したようなゲームだった。

下関国際と言えば、思い出すのはS38(1963)の下関商業である。未だに、高校ナンバー1投手は、池永正明だと思っている。桑田や江川など、問題外じゃ。あの年の池永は、春は全国優勝し、夏は左肩を脱臼して右腕だけでプレーし、決勝で大阪明星高校に、1-2で負けたのみだった。

高校野球狂いは、年とともに昂じて行き、30歳ころにピークを迎える。1975年、北海道日大高校の試合で、最終回、最後のショートゴロを一塁に悪送球して、一瞬で逆転負けを喫した場面が頭から離れなかった。ショートの折霜忠紀選手は、その場から立ち上がれず、仲間に抱きかかえられて甲子園を去った。

すぐに学校宛に手紙を書き、それから文通が始まった。驚いたことに、傷心の折霜君は、見事に立ち直り、25歳で北海道日大の監督になり、甲子園に戻って来たのだ。その数年後、松山商業との交流試合の為に来松して、僕に会いに来てくれたのだ。

そうやって、大事な場面でエラーした選手や、好投していたのに一発のホームランで負けた選手に、手紙を出しまくった。皆、立派な大人になり、ずっと野球に関わってくれたから、僕としてもやり甲斐があったのだ。僕には、甲子園など高校野球の一場面に過ぎない。無名の選手こそ大切だったのだ。しかし、31歳で味酒心療内科を開業することになり、高校野球に専念?することは出来なくなった。 

あれほど熱心だった甲子園への興味関心は、少しずつ薄れてしまっている。閉会式で、朝日新聞や高野連のじじいが、長々と牛のよだれのような挨拶をする。疲れ果てている決勝2チームの選手は、毎回かわいそうでたまらんわい。僕が選手なら、「じじい、早よやめいや!」とおらんでやるけどなぁ。

話はあちこちに飛ぶんじゃけど、宮城県に加美郡色麻しかま町という田んぼばかりの町がある。そこに、1900年創立の県立加美農業高校があって、校地面積は「東京ドーム約17個分」もあり、端から端まで歩くと1時間以上かかるらしい。宮城の山あいにあり、山形にも近い。そこの野球部は、一時部員2名になって、存続が危うかった。

そこに、佐伯友也監督と言う風変わりな男(35歳)が赴任して来る。体育教師じゃなく、農業科教師である。県予選は、他の高校と合同で9人を搔き集め、一回戦でコールド負けするのが恒例だった。しかし、この監督は、仙台育英や東北高校など超強豪校に練習試合を申し込むのだ。「負けたって恥じることはない」「野球は楽しい。楽しんでうまくなるなら、堂々とやろうぜ」

仙台育英には、70-0で負けたこともある。なんと、あの佐々木朗希が居る大船渡高校にも練習試合を申し込んだ。受けた大船渡の国保監督も粋であり、佐々木も男気がある。そんな加美農業に出向き、わざわざ佐々木が投げたのである。加美農業相手だからこそ、投げたのだった。17-1だったが、加美農はなんと1点を取ったのだ。もちろん佐々木も、目いっぱい投げたわけではない。当時はマスコミが追いかけていたから、加美の田舎は大騒ぎになった。

 佐伯監督は、初めてボールを握る1年生には、危なくないようにソフトボールから始めた。そうして、初心者集団を、県予選に出るまで伸ばしていく。なにしろ、「自己肯定感を、持ってもらう」「成功体験を感じて欲しい」のがモットーらしい。

 選手たちは、「俺たちは、佐々木朗希ともやったぜ」「仙台育英が全国優勝したのも、加美農に勝ったからぞ」と、野球歴を誇りに思うようになる。そうやって、今年は、部員22名になったらしい。

 最弱最凶最悪の野球部経験しかない僕にとって、心底うらやましい話である。僕の野球部時代には、OBの医者たちのバカさ加減にうんざりして、覚えたのは反抗心と軽蔑心のみだった。

佐伯監督のように、自己肯定感を育むことこそ、高校野球の真髄だろう。今や、東北近辺の指導者が佐伯監督詣でをして、その精神を受け継ごうとしている。学校の統廃合と少子化が続く中で、「野球小僧」を育てる試みが、希望を感じさせる。東北各県のこういう明るさの中から、大谷翔平や佐々木朗希も出て来るし、無名の野球小僧が育って行くのだ。

(出典:イラストAC