(122)・・・朋有り遠方より来たる・・・

とも有り、遠方より来たる、また楽しからずや

突然の電話。「わし、小池よ。りゅう、どうしとんぞ?」「なんとか生きとるがな。今頃どしたんぞ?」「おまえに会いに行こ思てな。明日、行くけんの」 中学2年の頃、小池が突然に、「無銭旅行に行こや。次郎物語(下村湖人)を読んだら、挑戦しとうなったけん」「ほうか、おもろそうじゃ」
それで、石丸と小林を誘って、4人で春休みに出かけた。
「1円も持ったらいかんぞ。握り飯と水筒だけじゃ」「無計画の計画ぞな」
「回れたら、四国一周してもええがな」

 11号線を、東に向かい歩き始めたが、一向に車が止まってくれない。普段着を着た14歳が4人、ヒッチハイクには見えなかったか?歩いても歩いても、松山市内から出れないで、日は高くなり、暑いのなんの。水筒の水も飲み干し、すぐに行き詰った。当時は、自動販売機など無い時代だった(S37年)。

 桜三里という峠越えが難所だったが、なんとか40㎞近くを歩き、道前平野に出ることは出来たが、日が落ちて、寒い寒い。今の、東予市あたりである。

 日が暮れて暗い夜道に、廃校のような建物が見えて来た。
「あそこに潜り込んで、寝ようや」「ほうじゃほうじゃ」

 「こら~っ、おまえら誰ぞ~?」
そこは、小松中学であり、宿直の先生に見つかったらしい。
「すんません。無銭旅行をしとりまして…」
「ほら、無茶ぞな。よいよいじゃが。もうええ、ここにお泊りや」

 たったそれだけの「冒険」で終わったのだが、いやはや幼稚なことよ。その後、もう一度19歳の時、別の3人で目指し、その時は、曲りなりに四国一周したのである(→また後日)。

 その、次郎物語を読んだ言い出しっぺの小池が、しいのきに現れた。
「おまえ、わしの死に目に会いに来たんか?」
「いやいや、違う違う。ちょっと松山に帰ったけんな」
「卒業して、一回どこかで会うたかのう?」
「もう、それも30年も前じゃろ?」
「東京のE(開業医)が死んだらしいな。あんな元気な男がのう」
「外科のYも死んだらしいぞ。急にな」
「よいよいじゃが、もう誰が死んでもおかしない歳じゃけんのう」

 小池は、愛光→東大法学部→弁護士。
中学入学時にも高校卒業時にも、軽くトップクラスで、珍しくガリ勉無用の、エリートだった。しかし、検察に進まず、霞が関官僚にもならず、子どもの頃の正義感が、そのまま残っている。弁護士の中でも、人権派革新派の「自由法曹団」に所属し、山本太郎との交流もあるらしい。国連に、国会に、マスコミに、どこでも活躍を続けている。

 東大に行くやつは、例外なく馬鹿である。勉強が出来るだけで、頭は悪く、狭視野で、人を人とも思わぬ馬鹿しか見たことが無い。しかし、こういう例外も居ったのだ。政府の、「自立」「自助」の欺瞞性を真っ直ぐ批判し、学術会議推薦候補者の任命拒否問題を断罪している。

 無銭旅行の他の2人、石丸も小林も、やはり東大に行ったが、官僚にはならず、一人は出版社、一人はスバルの技術者になった。懐かしい友達とは言え、支配層に進むような連中とは、会う気にはなれないから、そういう点では安堵した。

 やっぱり、無銭旅行の感性は、素晴らしかったなぁ。子どもの頃から、正道を真っ直ぐ生きた小池。一方、回り道、脱線、迷い道くねくねの僕。センスは随分違っているが、世の不正を許さないという一点で、再会できたのは感慨深かった。

もう会うことは無いだろう。よう来てくれたな、小池☆

(出典:イラストAC