(139)・・・おけいちゃん・・・

 戦後の大衆歌謡は、元祖三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)以降、常にライバルが居て競争を煽り、そこにファンが群がって行く流れが続いた。

四天王(三橋美智也、春日八郎、三波春夫、村田英雄)、御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)、スパーク三人娘(中尾ミエ、園まり、伊東ゆかり)、新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ)、新三人娘(小柳ルミ子、南沙織、天地真理)、たのきんトリオ(田原俊彦、近藤真彦、野村義男)、花の中三トリオ(森昌子、山口百恵、桜田淳子)などである。

立川談志は、落語だけやっていれば、天才だったが、おバカな証拠に自民党に乗せられて、代議士になり沖縄担当大臣になって、酔っ払い会見をやらかし、みじめな辞職をしてしまった。落語以外で褒める所が無いバカ男だが、一点だけまともな発言をしたことがある。「おれが認める歌手は、田端義夫と松山恵子だけ」

表舞台で華やかに取り上げられるスターがあり、一方、ドサ回りをしながら(今でいうライブ活動)、地道に歌い続ける大衆歌手も存在した。その代表が、おけいちゃんこと松山恵子である。

愛媛出身だから言うんじゃないが、この人は、戦後の歌謡界では、別格の存在だった。ファンも多かったが、何よりも歌手の中での憧れだった。同年代の、美空ひばりや島倉千代子とは違って、誰とでも居酒屋で膝付き合わせ、一緒にラーメンを食べるような偉ぶらないスターだった。売れない歌手には、金を貸しまくって、自分は借金まみれになったこともある。

「アンコ悲しや」「未練の波止場」は、そのまま「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡船」になり、都はるみがスター階段を昇るきっかけになった。

大きくふんわり広がったドレス(直径3m)の真ん中に座って、ハンカチを振りながら、「おけいちゃん、また来るけんね~」。これを、パクったのが小林幸子である。

「だから言ったじゃないの」の歌い出し、「あんた泣いてんのね」というセリフは、小学校の先生が真似るほど流行ったが、歌謡曲にセリフを入れたハシリであり、美空も島倉もこぞって真似をした。

自分のことをおけいちゃんと呼び、「おけいちゃんは、バカじゃけん、肝臓がんでも歌うんじゃけんね」などと、最後まで方言丸出しだった。

おけいちゃんは、30人しか居ない限界集落に出向いたり、定期便の無い瀬戸内の離れ小島にもたびたび出かけて、歌い続けた。もちろん、カネにならないことだが、苦にしなかった。

おけいちゃんが亡くなって以降、徐々に公衆電話も見かけなくなった。「お別れ公衆電話」を記念して、宇和島駅には、おけいちゃんの公衆電話が残されている。しかし、それも今は、「携帯電話ボックス」である。とうとう、歌謡曲の抒情など、存在出来ない時代になってしまったのだ。

『お別れ公衆電話』
作詞:藤間哲郎 作曲:袴田宗孝

何もいわずに このままそっと
汽車に乗ろうと 思ったものを
駅の喫茶の公衆電話 いつかかけていた
馬鹿ね馬鹿だわ 私の未練
さようなら さようなら
お別れ電話の せつないことば

(出典:イラストAC