(112)・・・親愛なる正岡子規・・・

 明治初期、150年前の人だが、僕には、どうにも気になる男である。あまりに似ていて、他人のような気がしない。才長けた偉人だが、なんと30歳前後の若者だった。昔の人は、老けとるなぁ…。

1.松山生まれ
2.人相悪く、無愛想で毒舌
3.よもだ男
4.野球小僧
5.寝たきりで死んだ(…と来れば、似ていると言うしかないだろう。失礼かな?)

子規の生まれた花園町は、しいのき心療内科から、歩いて10分。(今の僕では歩けないが…)。

独特の人相は、明治初期のセピア色の写真で有名だが、大きな頭が印象深い。「坂の上の雲」では、香川照之が子規に扮して、いかにも悪相であり、無愛想だった。

結核で、吐血をしたから、「鳴いて血を吐く」ホトトギスを愛した。ホトトギスは、口の中が真っ赤で、キョッキョッキョッと鳴く。その声は、「ホトトギス」とも聞こえ、人によれば、「東京特許許可局」と聞こえるらしいが、僕には、そんな風に聞こえたことは無い。ホトトギスには、杜鵑、不如帰、子規、時鳥などと、いろんな当て字があって、その中から、号に、子規を選んだらしい。

俳句革新運動を起こし、あちこちで毒舌を吐きまくった。句集もまた「ホトトギス」であり、高浜虚子たかはまきょし河東碧梧桐かとうへきごどうなど、多くの弟子を残した。

松山随一の「よもだ男」だったらしく、一高(今の東大教養部)時代は、カンニングの常習犯で、漱石らにも金を借りまくったという。当時の同級生に、秋山真之、夏目漱石、南方熊楠らの逸材が居た。よもだの子規は、中退している。(学校に行くのはアホじゃ!)

一高では、当時日本に入りたてのベースボールを愛し、自分ののぼるという本名を、のボール(野球)と自称し、今の野球という呼び名に繋がった。他に、直球(ストレート)、打者(バッター)、走者(ランナー)、四球(フォアボール)飛球(フライ)など、今に使われている用語は、子規の発明である。

「まり投げて見たき広場や春の草」
「草茂みベースボールの道白し」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

子規が、野球を持ち帰ったことで、戦後に至るまで、松山は野球王国だった。今も、坊ちゃんスタジアムに、野球資料館「の・ボールミュージアム」がある。

その後の子規は、30歳頃から、徐々に歩けなくなり、リウマチも疑われたが、結局は、脊椎カリエス(結核性脊椎炎)だった。背や尻から排膿し、痛みは耐え難く、モルヒネなどで凌いでいたらしい。(34歳で病没)。毎日、トラムセットを飲まざるを得ない、今の自分に重なるようだ。

寝たきりになっても、書くことはやめず、「仰臥漫録ぎょうがまんろく」「病牀六尺びょうしょうろくしゃく」などを残した。そんな題名までも、僕の、「独語臥床どくごがしょう」「毒語鯨笑」などと、どこか似ているが、真似したんじゃないぞな。

子規に憧れるのは、寝たきりだろうが、激痛だろうが、常にユーモアや自虐、毒舌など絶えることなく、弱気の風を見せることが無い。当時の結核は、不治の病であり、死を覚悟せざるを得なかっただろう。なのに、なのに、飄々ひょうひょうと、そして毅然とした生きざまが眩しいのである。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」「松山や秋より高し天守閣」

市内には、数え切れないほどの句碑があり、投句ボックスもある。
大街道商店街では、全国の高校生が集って「俳句甲子園」が開かれ、もう24回になった。因みに、第1回の最優秀句は、「秋立ちて加藤登紀子が愛歌う」。第24回は、「ウミユリの化石洗ひぬ山清水」。

「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」も盛り上がり、今年は、今治西高伯方分校の高校生作「君の青を枯野に転写してくれないか」。(大好きな君のまばゆい青春を、枯野に映してほしい…という恋歌だろうか?)

時代は、確実に進んでいる。子規が審査員なら、何と言っただろう?
今は、夏井いつきが、プレバト「芸能人俳句査定ランキング」で、毒舌を吐きまくっているが、夏井も子規の遠い遠い弟子である。
何にせよ、子規を他人のように思えないのだが、自分では一句も詠んだことが無い。全く、その才が無いのである。なんにも似てないがな…とほほ。

(出典:イラストAC

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