(129)・・・ブラクジラ「忽那諸島」・・・

中島本島なかじまほんとう津和地島つわじじま怒和島ぬわじま睦月島むづきじま野忽那島のぐつなじま二神島ふたがみじま由利島ゆりじま忽那七島くつなしちとうと呼ぶ。それに加えて、松山沖の興居島ごごしま釣島つるしまと、北条沖ほうじょうおきの、鹿島かしま安居島あいじまを合わせて、忽那諸島くつなしょとうと言い、由利島以外の10島に人が住み、その他、無人島が23島あるらしい。

 西に伊予灘、北に安芸灘、東は斎灘いつきなだに囲まれていて、安芸灘はクダコ水道が走り、東西に潮流が速く、九州↔京、大阪を行き来する古くからの海の交通路だった。

 いくつかの島には、なんと弥生時代の遺跡が残る。丸木をくり抜いた手漕ぎの船で、弥生人たちは、魚や貝を求めて、瀬戸内海を往来していたのだ。
諸島の中でも、大きな中島、興居島、安居島には、それぞれ2ケ所の海水浴場があり、いつ行ったか忘れたほど昔、泳いだ記憶がある。我は海の子、白波の~♪と言いたいが、実はカナヅチである。(とほほ)

 鹿島は、北条港から渡船で、3分。1周歩いても、30分もかからない小島だが、古い群生林があって、頂上には、展望台と鹿島城跡があり、平安時代から、水軍の根拠地だった。山には多くの野生鹿が住み着き、昔は、猿も居た。

 島の周囲には、散歩道、釣り場、海水浴場、奇岩群きがんぐんがあり、渥美清は、「第二の故郷」として、太田屋の鯛めしを好んだと言う。無二の親友、早坂暁が渥美の死後、句碑を建てた。

『お遍路が一列に行く虹の中』

島内には、俳人の句碑が多くて、昔からかなりの愛好家が居たのだろう。
精神病院のレクの定番地であり、松山精神病院時代には、久米病院のレクにぶつかり、小さな島に100名ほどの患者たちが交錯して、点呼が大変だったことを思い出す。

 興居島も、渡船で15分くらいの所にあり、これまた精神病院のレクに使われ、若手看護師たちのキャンプにも呼んでもらったことがある。
興居島のそばには、涙の形をした釣島があり、日本最古の洋式灯台(明治6年)の一つがあって、白い立ち姿から、海の貴公子と呼ばれた。

 キャンプと言えば、怒和、睦月、野忽那島では、真夏のキャンプ経験がある。全島制覇も考えたが、二神、津和地、由利島には行けなかった。由利島は、個人所有なので入れない。
後に、「進め電波少年」に使われ、最近は、「鉄腕Dash島」で知られるが、特別に使用料でも払っているのだろう。その形から、「ひょっこりひょうたん島」のモデルとも言われる。ひょうたん型だが、地学的には、二つの島が砂州で繋がれた「陸繋島りくけいとう」である。

 中学以降は、真夏のキャンプに、毎年出かけていた。これには、冒険ごっこ好きな発案者が居て、6人くらいで取り組んだ。キャンプと言っても子供には容易じゃない。旅程表、予算案と集金、買い出し、テントや飯盒などの機材集めなど手分けしてやる。こういう段取りになると、リーダー役(→雑用係?)は、いつも僕になった。

 石を拾ってかまどを作り、薪を集めて、火をおこす。水加減を考えながら、飯盒はんごうを炊き(はじめちょろちょろ、なかぱっぱ、あかごないてもふたとるな)、野菜を切ってカレーを作る。何事も初めての体験だったから、あゝだ、こうだと、喧嘩ばかりしながら、なんとか飯にありつけた時の旨かったこと☆

 中でも中3の野忽那キャンプが、最も記憶に残っている。ヌカバ浜は、海が澄み切って、白砂の浜であり、当時は自然のままだった。夜のしじまに、波の音だけを聞いて、くたびれて眠る。空には、満天の星と天の川。街では見たこともない世界が鮮烈だった。

 朝は、真夏でも冷気で目を覚ます。浜の前には、高縄山たかなわさんから昇る朝日がまぶしかった。自然の中に身を置くと、世俗のくだらなさ、人間の小ささに気付かされる。だから、子どもたちには、キャンプを薦めたい。どんな教育でも得られぬものが、大自然の中にはあるだろう。。

 それにしても、あれから60年が過ぎた。あゝ、迂闊過ぎる人生。勿体ない、勿体ない。

(出典:松山県庁Web
(出典:イラストAC