(95)・・・人格障害・・・

 国際疾病分類をICDと言う。精神医療は、その中のF00~F99に区分されている。(例えば、統合失調症ならF20であり、アスペルガーならF84)。これと共に、よく使われるのが、アメリカ精神医学会のDSMというものがあって、この二つは、相互に影響し合っている。

 そのどれもが、実に幼稚で世間知らずの疾病基準だが、最もひどいのが、「人格障害(F60)」だろう。昔は、精神病質(異常人格)という概念があって、「性格が平均から著しく偏っていて、そのために自らが悩むか社会を悩ますものであり、生まれつきの素質に大きく左右される」と規定されていた。

 この「社会」とか「平均」とは一体何なのか?それが、精神神経学会では、繰り返し議論されて来た。ナチスドイツでは、反対勢力の人間を、社会に害を及ぼすという理由で。断種手術をしたし、ソ連では、ソルジェニツインの「収容所列島」にあるように、政府の御用精神科医たちが、反体制勢力を「精神病質」として収容し、大量セレネース漬けをやった。

 つまり、「社会」とか「普通」とか「平均」とかの概念で以って、人を診断することは、非科学的であり、許されないことだとされたのだ。これらは、保安処分についての論争の中で主張されたが、しかし、小田晋や中田修のような「普通」じゃない基地外学者が猛反論し、その後は、野田正彰や中山宏太郎のような裏切り者が登場して。曖昧決着になった。

 そして、アメリカの影響が濃い精神医学が侵入して以降、こっそりと「人格障害」が復活してしまった。「異常人格」概念を提唱したシュナイダーは、ナチスの蛮行を見て、「こういう概念は誤りだった」と自己批判したのだが、多くの精神科医には、全く理解できないらしい。漫画やアニメにも登場して、「サイコパス」という言葉も流通している。

 「異常」とか「狂気」というものは、誰もが内包していて、「あっち」と「こっち」は別世界ではない。相性が悪いとか気が合わないとか、考え方が嫌いとかは仕方が無いが、それを精神科診断にする理由にはならないのだ。以前、野田正彰が、橋下徹を「パーソナリティ障害」と雑誌に書いて、裁判沙汰になった。橋下が、大ぼら吹きで、ギャーギャーと喚き散らすチンピラだと言うのは間違いないが、それでも「人格障害」という診断は使ってはならない。野田の勝訴という最高裁判決は、大変に危険なものだと考える。精神医療が、国家や政府の治安政策の手先になってはならないのだ。

 皮肉なことに、橋下の野望が実って、安倍や菅が総理大臣の後継にしたなら、あの男は、反対勢力を「基地外」だと喚き散らし、どんな迫害をやらかすか、危険な男である。

 話は元に戻るが、精神医療の教科書や論文を見ると、なんにも分かっていない教授連中が、トンチンカンばかり書いている。極端に言えば、最初から最後まで、嘘ばかり並べている。ありもしない概念を振り回し、ありもしない診断基準の元、臨床現場では、全く通用しない治療法を書いている。そういう教育を受けた連中が、また精神科医として、再生産されるのだ。

 人は生まれつき、正常と異常があるわけではない。知的障害でも発達障害でも、どんな障害でもスペクトルであり、誰もが地続きである。分かりやすいのが、IQ(知能指数)だろう。70以下を知的障害というが、検査のコンディションにより、10くらいは違って来る。IQが高いからと言って、健康とは言えず、且つ「普通」とも言えない。100前後が最も多いのだが、多数派だから「まとも」とは限らない。検査など、所詮は検査である。人を数字や統計でみるなどトンでもないのだ。

 ここまで書いていたら、小田急線で、刃物を振り回した男が逮捕されたというニュースがあった。「幸せそうな女の人を見ると、殺したくなる」と言ったらしい。こういう男には、「反社会性パーソナリティ障害」などの診断が付けられるだろう。そんなものは、「診断」ではない。この男の人生の軌跡をちゃんと見据えたうえで、診断をしてもらいたい。

 僕の中にも、「狂気」が住んでいる。苦しい時ほど、衝動性が顔を覗かせる。いつも「殺意」を秘めながら生きて来た。誰も気づいていないだけで、人は皆、「異常性」を抱えて生きているのだ。

※ピンクフロイドに、「狂気」というヒットアルバムがある。洋楽嫌いの僕も、ちょっと心惹かれた時代があった。ギタリストのシド・バレットは、共感覚の持ち主で、音に色や匂いを感じたと言う。

(出典:イラストAC