(41)・・・あゝ我が母校(小学校編)・・・

松山市立和気小学校。懐かしいが、あまり思い出したくない。一部を除いて、多くの教師ともめたおした。元気な小学生だと、ずっと思っていたが、後から知ったのは、皆から浮いて、孤立していたらしい。全然自覚せんかった。(早く言えば、嫌われ者、厄介者…)
 入学して1年目頃は、伊予絣で出来た着物姿。冬は、丹前(=褞袍どてら)を着て、福助の足袋に下駄を履いていた。伊予絣は、備後絣、久留米絣と並んで、日本3大絣。そのほとんどが、垣生と和気で織られていた。和気の町には、一日中機織りの音が響いて、藍のにおいがする町だった。

 戦後の貧しさが残り、円明寺(八十八か所第53番札所)の前では、傷痍軍人のアコーディオンが奏でられ、門の上には、家も親も無い子どもが住んでいた。小学校の初日から、一度も顔を見せない子が2人居て、父親が戦死し、田を耕すのに、子どもが駆り出されていたらしい。

 成績は常に一番で、通知表はオール5。それは当たり前で、家に帰ると毎日毎日、親の特訓が待っていた。少しでも間違えると、鯨尺(着物用の物差し。昔は鯨のひげで作られていたが、僕がシバかれていたのは、竹製のもの)が、ビシッと飛んで来る。上級生になって徐々に反抗し、家に帰らず野球をしていると、和気中探しに来て、連れ戻された。うちの親は鬼の化身じゃと思っていた。

 家での抑圧は、学校での反抗になり、弱い者いじめに向かった。昭和22年生まれだから、上が少なく、同級生は異常に多かった。一軒一軒、どの家にも子どもが居り、どこにも無断で上がり込み、誰とでも遊べた。鍵を閉める習慣はなく、夏の夜は開けっ放しで、蚊帳の中で寝るのが普通の風景だった。
和気1丁目は、絣屋が多く、芳野さんだらけ。二丁目は、漁師町で、橋本と松本ばかり。太山寺は、みかん山が多く、鵜久森さんが多かった。牛や豚を飼う家が、非常に多かった。

 北に走って行けば、和気浜があり、六尺ふんどしで泳いで、松の木で乾かして帰る。

 西には、経ケ森と太山寺(52番札所)があって、山に行けば、しゃしゃぶ(グミ)もニッケもスイジ(すかんぽ、いたどり)やあけび等、食うものには困らない。何も無いときは、そこいらの家のみかんや柿を盗んだ。みかんは、顔が歪むくらいのダイダイだし、柿は、渋柿に当たって、死にそうだった。
西に久万川、東に大川が流れ、鮒やハヤを追いかけて、源氏ガニを取っていた。予讃線伊予和気駅があって、線路も格好の遊び場だった。鉄橋や踏切で、肝試しをしたり、春にはつくしがたくさん採れた。松山は、和気から見たら都会だし、なかなか遠くて行けなかったが、恵まれたふるさとだったと思う。。

 火の見櫓の半鐘を叩きたくて、登ったのはいいが降りられず、消防団のおっさんに怒られたり、円明寺の本堂にも登って、降りられず泣いていた覚えがある。「馬鹿と陽ちゃんは、高いとこ上がる」と、大いにからかわれた。釘を磁石で集めて、鉄くず屋に売れば、10円とか15円になったから、1円で2回のくじが引けた。紙芝居の水あめは、2円だった。円明寺えんみょうじは、地元では、えんめいじと呼ばれ、54番札所の延命寺が、ほんとのえんめいじだと知ったのは、大人になってから。空地も多く、円明寺もあって、紐を巻いたボールを作り、竹をバットにして、野球ばかりしていた。
 和気小の校庭には、二宮金次郎像が立っていて、四国池や楠の大木があった。思い出すだけで、ロクな記憶に繋がらないから、小学校の思い出はこれで終わり。今でも悪夢を見る。

 後で聞いた話。中学は、皆と一緒に内宮中学に行くものだと思っていたが、中学の校長が和気小に来て、「あの子はうちではよう見んけん、愛光にでも行かせてや」と言うたらしい。
 よいよい、わやじゃがな。これじゃけん、教師なんか信用せんのぞな。

和気小学校校歌

♪波も静かな 和気の浜
潮風そよそよ窓辺に吹けば
心さわやか快く みんな仲良く学びましょう

松も緑の 太山寺
ミカンはほのかに色づき香り
強く楽しく朗らかに 力いっぱい鍛えましょう

実り豊かな 広野原 お城もはるかに
石鎚仰ぎ 望み大きく高らかに
明日の日本を築きましょう♪

和気小学校校歌
(出典:弟、笠雄二郎の「ケヤキの向こう」