(114)・・・漂泊詩人、山頭火・・・

 正岡子規の弟子からは、高浜虚子たかはま きょし河東碧梧桐かわひがし へきごとうという2流派が生まれた。原理主義の虚子と、改革派の碧梧桐である。改革派から、自由律派(なんで五七五じゃないといかんのぞな?)や季語不要論(季語なぞ要らんぞなもし)が生まれたが、その究極が、碧梧桐の孫弟子、種田山頭火たねだ さんとうかである。

 退廃し、困窮し、酒に溺れて、さすらいの果てに乞食同然になった。一笠一杖一鉢の旅(良く言えば、お遍路さん。悪く言えば、乞食)の末に辿り着いた松山で、「やっと人間に戻れたぞな」。松山市御幸町の「一草庵」で、58歳の人生を終えたのである。

 これでも、俳句かな?と言われたりするが、どんな俳句よりも、激しく優しく胸を打つ。もう、俳句かどうかなど、どうでもいい。自分に正直に生きれば、こんな風になるのだろう。山頭火は、自分を偽るすべを知らなかった。「おかしな人」と噂されたが、誰の心にも山頭火は潜んでいる。

一羽来て啼かない鳥である
どうしようもない私が歩いている
ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
笠にとんぼをとまらせてあるく
この旅、果てもない旅のつくつくぼうし
鈴をふりふりお四国の土になるべく
まっすぐな道でさみしい
すべつてころんで山がひつそり
分け入つても分け入つても青い山
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
おちついて死ねさうな 草萌ゆる

最後の句は、「おちついて死ねさうな 草枯れる」…だったのに、隣人の温もりに触れて、書き直したらしい。優しすぎるくらいの人だったのだろう。
一草庵には、「生まれるよりも死ぬる方がむつかしい」との言葉あり。