(99)・・・ふるさとのはなしをしよう・・・

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そしてかなしくうたふもの
よしや うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや

室生犀星

この詩のように、(車で15分のところに、ふるさとがあるが)思い出しはしても、行こうとは思わない。不思議で複雑な感情が沸いて来るものだ。

 村の真ん中に、円明寺(四国八十八か所53番札所)。北に白砂青松の和気浜、東西の大川と久万川、西に太山寺(52番札所)や経ケ森きょうがもり。予讃線の和気駅もあり、線路が横切っていた。子どもにとって、遊ぶところだらけの村だった。水田は広く、二毛作で、春には麦が、秋には稲が実った。麦踏みやヒバリの巣探し、麦笛が懐かしく、初春には、広いレンゲ畑があり、土手でつくしが取れた。春秋の彼岸には、彼岸花(曼殊沙華)が真っ赤な花を咲かせた。

和気浜から、引き潮を見計らって、岩だらけの海岸線を西に辿れば、白石の鼻があって、そこまで行くのは、小さな冒険だった。「三ツ石に行ったら、タコに引き込まれるぞな」と、よく脅されていた。

 田舎者にとって、北の風早かざはや(北条)、南の松山(まっちゃま)、その南の郡中(伊予市)に行くことは、とてつもなく遠い世界だった。明治8年に、和気小学校が出来たのだが、その頃の和気は、和気郡と呼ばれて、とても広い地域だったらしい。東は、祝谷。北は、風早(北条)。西は、高浜や三津浜から興居島まで。南の端が、今住んでいる山越であり、そこで松山と接していた。

 和気から、遍路道が風早に続いていて、今でもお遍路さんが歩く風景がある。風早に生まれた早坂暁は、「花へんろ」で有名になり、後に「夢千代日記」「天下御免」「天下堂々」「ダウンタウンヒーローズ」など、テレビドラマを劇的に変えた異才の人だった。

 高校の頃、金曜の夜は、「天下御免」「赤ひげ」「天下堂々」「鳴門秘帖」などに夢中になった。今の腐りきったNHKからは想像できないだろうが、どのドラマにも「権力」に対する批判精神が流れていて、それに引き寄せられたのだ。

 小林桂樹、あおい輝彦の「赤ひげ」を見て、その後文庫本を読み、「医は仁術」という言葉を知った。篠田三郎、石橋正次、村野武則などの「天下堂々」では、渡辺崋山、清水次郎長、国定忠治、河内山宗俊、平手造酒、大塩平八郎、千葉周作など、登場人物が豪華極まりなく面白かった。「鳴門秘帖」は、田村正和の事実上のデビュー作である。

とりわけ強い印象を残したのは、16歳の時に見た「天下御免」である。江戸時代の天才アスペルガー、平賀源内(本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家)を中心に、お上の悪政、役人の腐敗、公害問題や受験戦争を皮肉って、50年前のドラマとは思えぬ先見性だった。今の時代に放送していたら、高市早苗などのプッツン右翼たちが、「電波の停止」という脅しをかけて来ただろう。

 早坂暁の実家では、お遍路さんの娘を引き取って、暁の妹として育てたが、その妹は、広島の原爆で行方不明になった。その悲しみを胸に「夢千代日記」を書き、胎内被曝の苦悩を訴えた。生涯静かに、反戦、反核運動に関わり続け、それに撃たれた吉永小百合が、ヒロシマの朗読活動を続ける契機になったのである。

 和気浜から風早にかけての海は、斎灘いつきなだと言い、遠く南に広島が見える。瀬戸内海の静けさが際立っているが、初夏から秋の初めまで、白南風しらはえが吹く日も多く、涼を運んでくれるのだ。

「潮風が吹きぬける町」(S42年、西郷輝彦)
作詞:奥野椰子夫 作曲:米山正夫

潮風が吹きぬける町
浜茄子がゆれて咲く丘
わがふる里
夜ごと 夜ごと
胸にひびく あの潮騒(しおざい)
はるかな 潮騒

※下の写真は、上左に興居島。上に和気浜の海岸線。その沖が斎灘。その左(西)の角が白石の鼻。街の中央に、松山城が見える。左(西)の海岸線は、高浜、三津浜、松山空港に続いている。重信川の下(南)の緑は、松前平野である。

(出典:photolibrary