(177)・・・ブラクジラ<我がふるさと>・・・

(41)あゝ我が母校(小学校編)でも書いたが、子どもの頃の思い出は、苦いものが多かった。今回は身じまいを兼ねて、ようやく53番札所、円明寺に行くことが出来た。

山門である八脚門やつあしもんには、古びた金剛力士像があり、それをくぐると、タイムスリップしたように70年近い時間が呼び戻される。街並みに溶け込んだ小さな寺(地元では、えんめいじ)なので、誰もが出入りしやすかった。生家から、たった5軒隣である。同じ和気でも、52番札所、太山寺は大きく、近寄りがたかった。一ノ門、二ノ門、山門とあり、子どもには、林道が奥深くて遠かったのだ。

さて、中門(鐘楼門)を過ぎると、本堂がある。今なら分かるが、左甚五郎作と言われる龍の彫り物が残っている。本堂の大屋根に登って、降りられなくなったのは、7歳の頃。今見ると、どうやっても上がれそうにない。あんなとこ、よう登ったもんじゃわい。

 陣取り遊びをした、大イチョウと大クスノキ。セミを取ったりしながら、数十本の全ての樹に登り尽くしたが、それらは、ほぼ昔のまま健在だった。当時は、石畳の道は無かったから、それなりに広い運動場代わりに、三角ベースを楽しんだ。ハチケン、ロクムシ、達磨さんが転んだ、木隠し、字隠し、そして、女の子はゴム飛びや毬つきである。粘土を集めて、自製の粘土細工を作ったり、笹舟を手水鉢ちょうずばちに浮かべたり、肥後守で竹とんぼを作ったり…おもちゃが無いから、何でも作ったものだ。何しろ、三角ベースと言っても、紐を巻いたボールを作り、竹がバット代わりだった。

団塊の世代だから、1歳上から3歳下まで、子どもが溢れるように居た。普通なら、上級生が居て、抑えつけられるだろうが、戦争世代がほとんど居なかったから、ラクだったのだ。その代り、狭い境内では、場所の取り合いが起こり、喧嘩と仲直りが、毎日繰り返された。

毎日、行かない日は無いくらい遊んだ境内だったけど、夕方には親が呼びに来る。大きな声で、「早よ、もんといで!」とおらぶけん、友だちから、「陽ちゃん、早よ帰って勉強せんと、怒られるぞな」と言われるのが、屈辱的で辛かった。突っ張って無視していても、帰ると玄関に入れられず、ボカリと殴られる。

そういう日々がさせたのか、どこかひねくれた子どもだった。火の見櫓ひのみやぐらの半鐘を鳴らしに上がったり、塀の上を走ったり、一人遊びが多く、かなり協調性が無かった気がする。

「門前の小僧、習わぬ経を読む」という言葉があるが、日常的に信仰の空気を吸って育ったから、仏さんなど小馬鹿にしていた。「門前の小僧、あほらしくて経を読まず」である。仏像や墓石は、単なる跳び箱代わりだったし、隠れキリシタンの墓にションベンかけたのも、10歳の頃だった。権力、信仰、偶像崇拝、洗脳などを忌み嫌う体質も、ここで培った。

手足を無くした傷痍軍人がいて、乞食や家なき子が、山門に住んでいた。念仏なんぞ唱えても、戦争したのは大人たちの責任じゃろがな。供養をしたって、死んでしもたら何にもならん。僕の心に巣食う虚無感も、ここから始まったのだ。

円明寺に行けば,萬國堂に寄らねばなるまい。
「おう、わしよ。分かるか?」
「おう、陽ちゃんじゃろが、どしたんぞ」
「俊ちゃん、元気か思て寄ったんよ」
「わしももうぼちぼちよ。おまえ、老人ホームに入って、仕事やりよるらしいなあ」
「ほうよ、お互い何もせんかったらぼけてしまうぞな」
「ほうよ、タルトも巻きよるし、憲ちゃんと毎朝歩きよるんぞな」
「ほらええのう。ほじゃけど、和気も変わってしもたのう。円明寺だけが変わっとらんがな」
「和気小学校も何にも無うなったぞな」

老舗萬國堂名物の薄皮饅頭を買って帰る。子どもの頃には、ここに立川(たつかわ)文庫の貸本があって、「宮本武蔵」「霧隠才蔵」「猿飛佐助」「後藤又兵衛」などが楽しみだった。
お寺の縁日や紙芝居の「トク坊」の水飴なども懐かしく思い出す。

それにしても、平成に入り、88か所参りが流行るようになって、結構儲けたのだろうか?あれだけオンボロ寺だったのに、綺麗に修理されている。寺も商売優先じゃ、風情が無いのう。
もちろん、和気小学校にも行ってみた。一言で言えば、あまりに面影が無い。当時の古木は、1本も残っておらず、運動場も川向うに移っていた。

明治7年、鶴聞かくぶん学校設立。明治19年、和気浜尋常小学校に(円明寺の隣、4年制)。明治41年、和気尋常小学校(6年生)となる。ここを起源にして、創立114年と言うが、鶴聞学校から数えたら、148年なのだ。(資料には、鶴聞学校が、江戸時代の寺子屋から発したものとあるから、実際はもっと古そうである)

校庭で、やっと見つけたものが、3つ。昭和11年から建っている「二宮金次郎像」。小学5年生の時の、「50周年記念碑」(昭和33年)。そして、戦前からあった「四国池」や「至誠碑」。努力と勤勉の二宮金次郎像は、言うまでも無く嫌いだった。しかし、今は校庭の隅で、誰にも相手にされず立っている。ホコリまみれの姿は、全く嫌いじゃなかったぞな。

タイムスリップする映像は、孤立し浮いていて、自己顕示欲の強い陽一郎少年ばかりである。片田舎の学校で「一番」になったって、下らぬことだと誰か教えてほしかった。あの頃のすべては、強制的にやらされた勉強だった。子供心には、皆と同じように遊びたかった。自由な時間が欲しかった。そうでなくても、縛られることを極端に嫌う子どもだった。

学校の隣に、今も「中央橋」がある。体育の授業が、跳び箱や鉄棒だと聞くと、男子グループを引き連れて、橋の下に潜んで隠れ、授業をボイコットした。ある日は、「ソフトボールじゃないとおもしろない」と逃げ出し、5~6名で和気浜まで逃げたが、自転車で追いかけて来た教師たちに連れ戻された。寒い校庭で、両手に水いっぱいのバケツを持ち、1時間立たされた上に、親が呼ばれたので、家では鉄拳制裁が待っていた。暴力反対!!

最後は、あんなこんなで、精神病院に連れて行かれた。なんでじゃ~ぁ?わしのどこがおかしいんぞな~ぁ?思い出が、哀しすぎるわい。

①山門
➁中門や手水鉢
③本堂
④切支丹墓
⑤二宮金次郎像
⑥50周年記念碑
⑦四国池
⑧和気浜