(86)・・・パラリンピック・・・

コロナ感染者が医療も受けられない災害時に、オリンピックやパラリンピック開催は、とんでもない事だが、それは置いといて…。

もう一つ、前提として、僕はスポーツ嫌いどころか、スポーツマニアでもある。

国際オリンピック委員会(IOC)は、クーベルタン男爵の提唱により、スポーツを通じた世界平和の実現がテーマだった。男爵という所と、フランス人という所が引き継がれて、未だに「貴族」たちの運営であり、フランス語が第一公用語らしい。

IOCの会議が、地中海の豪華ヨットの上で開かれると聞いただけで、反吐(へど)が出そうである。まだ、クーベルタンからブランデージ時代は、アマチュアリズムを軸に、露骨な商業主義(銭もうけ)は目立たなかったが、サマランチ伯爵、ロゲ侯爵から、現在のバッハ(ぼったくり男爵)に至り、その銭ゲバぶりは、露骨になった。

そのIOCと、国際パラリンピック委員会(IPC)は、元来別物だった。二つを分けるのは、本当はいけないのだが、徐々に合体化した現在は、IOCの悪影響が及び、銭もうけや国威発揚の場となって、腐敗しかけている。メダル、メダルと騒がずに、純粋にスポーツを競い合って、終わったらノーサイドであるべきだろう。その雰囲気のカケラが、オリンピック女子バスケットボールの決勝戦にあったのを覚えているだろうか?。

実は、知り合いの障害者(身体)のほとんどが、パラリンピックを見ていない。無関心派から、嫌悪派、拒絶派まで様々である。「なんで頑張っている障害者が偉いんぞな?」「そんなに頑張らんでもええじゃろがな?」「わたしらだって、頑張っとるがな」「スポーツ自体に勝ち負けがあって、嫌いじゃわい。興味な~し」

テレビでは、「障害があっても、あれだけ出来るのが素晴らしい」「私も勇気をもらった」…風のコメントが溢れている。あ~あ、つまらない、くだらない。障害者スポーツは見世物じゃない。誰もが出来る「生涯スポーツ」と言った人が正解だろう。

日本の障害者スポーツは、軍国主義の下、戦争によって障害を負った人を、戦場復帰させる為の手段として始まった。ヨーロッパでは、脊髄損傷者のリハビリとして始まったと聞く。

僕は、多くの障害者が、実はその日を暮らすのも精一杯であり、とても余裕のない毎日である事を考えてしまう。スポーツでも芸術でも、AI技術でも、才能があって「成功」する人はわずかであり、多くの健常者と同じく、多くの障害者は「普通の人たち」であって、誰もが、この暮らしにくい社会の中で、もがいている。なのに、上澄み液だけを、すくいとるんじゃないよ。美談仕立てとかお涙ちょーだいは、NHKの得意種目だが、気持ちが悪いけん、やめてくれ~。

最後に、ある病者と話していた時のジョーク。

「三障害とか言うけど、精神だけは付いて行けんなあ」「知的や身体みたいに頑張ったら、病気が悪うなるだけじゃわい」「精神のパラリンピックがあったら、幻聴の激しさ部門、妄想スケール部門、気分変動の大きさ部門なんかがあったらええ。メダル争い出来るぞな」…呵々。

(出典:イラストAC