(49)・・・天才投手、池永正明・・・

 野球小僧だったから、高校野球も必死で見た。甲子園の好投手と言えば、尾崎行雄(浪商→東映)、江川卓(作新→巨人)、桑田真澄(PL→巨人)、松坂大輔(横浜→西武)などが挙がるだろうが、S38の春に現れた池永正明に勝るピッチャーは居ないだろう。

 下関商業の、左胸に大きくSとだけ書かれたユニフォームを着て、この天才投手は、当たり前のように優勝した。全身がバネのような体は、中学三種競技(100m、走り高跳び、砲丸投げ)で、日本一になっており、100mの記録は11秒8。

 尾崎や松坂は、コントロールが無く、桑田はスピードが無く、根暗男。江川は、真っ直ぐだけ(性格は歪んでいたが)。池永は、スピードがあり、球質は重く、針の穴を通すコントロールがあって、ドロップ、スライダー、シュートを投げ、性格は豪胆にして爽快。

 優勝インタビューで、この16歳は、「おやじ、みっともないから泣くなよ」と言ったのが印象的だった。当然、巨人が札束で買おうとしたが、この反骨少年は、当時弱小球団に落ちぶれていた西鉄ライオンズを選んだのだ。

 S21生まれの池永の時代。その後の2年の間(つまり、我々団塊の世代)に、投手では、*鈴木、*江夏、星野、*平松、松岡、森安、*山田、*東尾、*堀内、木樽、成田らが出て、打者には、田淵、*山本浩二、*有藤、*福本、*加藤秀、*門田、*衣笠などが現れた(*は、200勝又は250セーブ又は2000安打)。皆が一流になったが、誰もが池永には一歩、二歩劣っていたと思う。素質が桁違いで、何より故障知らず、且つ野球脳に優れていたから、欠点が見当たらなかった。

 1年目から、20勝を挙げ、5年で100勝。強い球団に居たら、金田のようなインチキ400勝じゃなく、本物の400勝も夢ではなかった。打力も素晴らしく、投げない日には、先発メンバーに名を連ね、ホームランをたくさん打った。大谷翔平の、昭和版である。

しかし、23歳の青年投手に、地獄の日々が待ち受けていた。当時、八百長事件があって、その片割れが、池永の家に札束を持って来たことが問題にされたのだ。細かい経緯は省くが、池永は冤罪のまま、見せしめのように、野球界から永久追放された。国会にまで取り上げられた「池永復権運動」もむなしく、復権が成った時には、もう68歳になっていたのだ。

 この復権運動を担ったのは、西鉄同期入団の尾崎将司(海南高→西鉄→プロゴルファー)である。尾崎も甲子園優勝投手だったが、1年目に池永を見て自信を無くし、プロ野球を諦めてゴルファーに転向した。

 この時代のプロ野球は、コミッショナー≒読売のオーナーであり、様々な黒い噂が乱れ飛んだが、真相は闇の中である。池永は、全く弁解をせず、泣き言も言わず、堂々と第二の人生を生きた。並みの人間なら、弱冠23歳からの「転落人生」を、まともには生きれなかっただろう。その一つをとっても、池永は唯一無二の天才投手である。

 情けないことに、僕は、この不条理劇と同時代を生き、ひとり虚無感ばかりを増幅させて行った。1歳違いの池永に、思いを寄せながら、この世の中をどう生きていいか、分からなくなっていた。池永は強かった。僕は、弱すぎた。

(出典:ベースボールマガジン社)