(116)・・・労研饅頭・・・
たけうちの労研饅頭は、何度かの倒産危機を乗り越え、90年経った今も松山に生き残っている。饅頭は、まんじゅうと読まず、まんとうと呼ぶ。
あの種田山頭火は、道後温泉に入り、かめやのうどんを食べ、たけうちの「労研饅頭」(10銭)を買うのが楽しみだったらしい。
『秋の夜や 犬からもらったり 猫に与えたり』
これは、念願のコロリ往生を遂げる直前の句だが、貰ったりあげたりしたのが、この饅頭だったかどうかは分からない。
労研饅頭は、大正期に、倉敷労働科学研究所において、満州から持ち帰った味を作り直したものらしい。松山では、松山夜学校(→城南高校→松山学院)の生徒を応援する為、奨学会の数学教師、竹内某が、村瀬宝一(六時屋創始者)を倉敷に派遣して、大事な酵母菌を持ち帰った。(今も、たけうち本店の隣が、六時屋である)。
戦争中は小麦粉も無く、販売は出来なくなったが、この酵母菌だけは、松山大空襲の中でも(命より?)大事にされ、とうとう昭和20年に復活したのだ。本家、倉敷の店も無くなり、今は全国唯一のものが、松山名物になった。
伯方の塩以外に、保存料も防腐剤も入らず、酵母菌だけで作った蒸しパンは、当時はあんも無く、ほんのりとした甘さや香りが控えめで、不思議な郷愁を感じる安価なパンだった。今でも、一個ずつ手作りされている。
戦前の学校では、どこの売店にもあったらしいが、昭和35年当時、愛光中学の売店では、これがメインだった。黒大豆が少し入っただけの饅頭は、確か一個が30円。これを、2個食う奴は、大食いと言われたものだった。飽食の時代から見れば、我々は芋ばかりで育ち、粗食の日常だったから、60年前の労研饅頭は驚くほど旨かった。
今や、自然食ブーム、発酵食品ブームで復活し、大街道店では人だかりができるようになった。あん入りやココア、よもぎ、チーズなど種類も増え、14種類になっている。
『山頭火酵母を寝かす秋の雨』