(35)・・・あゝ病棟の夜は更けて②・・・

 病院により、夜勤は寝ていれば朝が来る所と、一睡も出来ない所があった。先輩に頼まれて、兵庫県の精神病院の泊りのアルバイトを多くやった。研修医の頃は、給料も少なくて、夜勤のアルバイトはよい収入だったのだ。深く立ち入れなかったが、昭和の精神病院だから、どこもそれなりに凄まじかった。電気はもちろん、ロボトミーや優生手術を受けた人が、どこにも居たし、ハンセン病の人、カナー型自閉症の人も多く居た。

コテコテに鎮静されているから、病棟は静かで静かで、夜勤の呼び出しは皆無に近かった。
松山に帰っても、基本は同じで、夜勤は寝るものだった。
それが激変したのは、堀江病院。開放化を進め、鉄格子や詰所のドアなどを一切取っ払ったから、それは、夜を通して進めたので、毎日夜勤に入り、毎晩徹夜でやることもあった。途中で院長に見つかったら、「中止!」と言われそうで、既成事実を作るために、入院患者も総動員し、眠剤無しで、「今日は無礼講じゃ」と工事にかかる。ペンキ屋。水道屋、大工、数学教師なども居たから、ほとんどプロ集団である。スナックのママさんや主婦が、雑炊とおにぎりを作り、病棟には音楽をじゃんじゃん流して、皆がノリノリだった。

 堀江病院では、入院以外に、ホステルという制度もあって、夜が不安な人など、いつでも泊りに来ていい。空いたベッドで、休んでもらう仕組みだから、どれが入院患者やら、だれがホステルやら、よくわからない混沌が生まれて、面白かった。
 もちろん、入院随時、いつでも誰でもOKだったから、昼も夜もなく働いたが、これは勝手にやったので、夜勤手当など無く、家にも滅多に帰らなかったから、家庭は一気に破綻した。

そんな夜勤の極めつけは、味酒心療内科(有床時代)の夜だった。救急車が走り回って、「どこも取って呉れない」「なんとか受けてくれませんか?」という要請が、夜の2時とかに入って来る。大体は、アルコールの病的酩酊とか、覚せい剤の譫妄せんもうばかり。精神病院は、研修医が泊まることが多く、上手に逃げるから、最後は味酒で受けることが多かった。結局最後は、院内5階で暮らす方が早く、その頃は、文字通り365日24時間働くことになった。その中で、事件や事故も多かったのだが、それはまた後日。

松山精神病院の夜勤も、かなり静かで、らくなものだった。あちこちの病棟を回り、将棋や花札をしていれば、大体の様子がつかめたから、消灯時刻には、医局に帰って寝ることになる。

ある慢性期病棟の隣が医局だったので、寝る時間には、いつも聞こえるハーモニカの音色を楽しんで、眠りに就いていた。70歳前の物言わぬ男は、診察でも多くを語らず、病棟での存在感もなく、ただ静かなお年寄りだった。夜勤者も、この人には、消灯時間をうるさく言わなかったから、毎夜毎夜流れるのは、「サーカスの唄」だった。

松平晃の唄だったが、小林旭、北原謙二、氷川きよし、細川たかし、美空ひばり、島倉千代子、五木ひろしなど、多くの歌手がカバーしている。松平、北原、小林が三強。氷川は、童謡レベル。細川はうるさいだけ。五木は、九官鳥の首を絞めているような声がいかにも聞き苦しい。美空は重すぎて、島倉は軽すぎる。
この歌には、哀愁が必須要素。それまでは、曲馬団と呼ばれていた旅芸人の世界を、サーカスのジンタ(ジンタカタッタ♪)に変えた最初の曲であり、もの哀しい名曲である。

昭和40年前後までは、キグレサーカスや木下サーカスが、松山のような田舎町にもやって来た。当時には、特有の偏見があって、言うことを聞かない生徒に、教師が「サーカスに入れるぞ」という脅し言葉を使っていた。他にあったのが、「衣山の脳病院にぶちこむぞ」「コイノニア(児童養護施設)に行くんか?」だった。

サーカスの唄
唄:北原謙二、作詞:西條八十、作曲:古賀政男

1 旅のつばくろ 淋しかないか
  おれもさみしい サーカス暮らし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘(こ)は うす情

3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  流れながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で

(出典:サーカスの唄 – 北原謙二)