(174)・・・ブラクジラ<宮前川>・・・ 

 重信川が、一級河川として流れ、松山市と松前町を隔てている。そして、その支流である石手川は、松山市民にとって、憩いの場であり、松山城に並ぶランドマークになっている。石手川は、出合(坊ちゃんスタジアムなどがある)で、重信川に合流している。

 さてさて、気づかぬうちに、生活に寄り添っているのが町なかを流れる宮前川だろう。石手川上流の岩堰から分かれ、細々と長く、最後は三津浜港に注いでいる。

 松山という扇状地を流れるがゆえに、時々伏流水ふくりゅうすいになって、街から消えたりするから、そんな長い川だとは誰も知らない。同じ、岩堰からは、中の川も分かれるのだが、下流の南江戸4丁目で、宮前川に合流するから、中の川は宮前川の支流である。

 昔は、この中の川の方が大きく広くて、三津浜から舟で荷物を運び、今の柳井町に港があった。そこに、今も湊町という町名が残っている。(ついでながら、江戸時代の町名は、一番町、二番町、三番町、鍛冶屋町、木屋町、鉄砲町、萱町、歩行町かちまちなどが残っている。ただし、味酒町はひときわ古く、うまさけの地は、奈良時代以前からの古名である)。

 中の川は、柳井町に小川が残り、いよてつ高島屋で地下に隠れたあと、松山市コミュニティセンター南側になると、少し大きくなって、宮前川に注ぐ。そこでは、本流の宮前川より大きくなっている

 さて本題の宮前川は、51番札所の石手寺前を流れて、道後の老舗「ふなや」を抜けたあと、伏流水になる。その後、道後喜多町セキ美術館北側で、地上に現れ、文京地区の真ん中を抜けて流れる。文京地区には、東中、勝山中、清水小、松山北高、松山大、松山短大、愛媛大、日赤病院などが集まっている。

 そして、本町、萱町、宮西町、愛光町、朝美町、南江戸、別府町などを流れ、三津浜を進む。ここで、三津の厳島いつくしま神社前を流れるので、宮前川と呼ぶようになった(我流の決めつけ)。

 コンクリートの護岸ばかりになって、風情も何も無いが、それでも、川筋には四季の花々が咲いていて、川には鴨や鷺が見られる。鴨は、食用として手に入れやすく、「カモにされる」…などと使うが、本当は保護鳥である。渡り鳥なので、一気に栄養を付ける為、脂肪肝になる。それを、強制的に作ったものが、フォアグラである。人間と言う奴は、つくづくおぞましい動物じゃ

 白鷺は、道後温泉の起源になっていて、今でも白鷺の湯と言う。不思議なことに、複数の白鷺に交じり、1羽のアオサギが居て、じっと集団を見守り、敵が来たら素早く察知して、真っ先に飛び立つ(は、朝美町のアオサギと黄菖蒲)。

アオサギの孤独と哀愁が好きでたまらんのじゃ。

白鳥しらとりは、哀しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ』(若山牧水)

白鳥は、かもめらしい。青は、ブルー&グリーンであり、昔は青と緑の区別が無かった。今でも、緑の信号を青信号と言う。新芽のような、黄緑色を緑と言ったらしい。

「あを」は、青じゃない。白、黒、赤以外は、おおまかに「あを」と言った。アオサギ(青鷺)は、青みがかった灰色だから、正確には「あをさぎ」である。

若山牧水は、空の青と海のあをを区別していた。この詩は、『アオサギは…』と読めば、もっと良かった。白鳥は(カモメであれ、白鷺であれ)群れをなすけど、アオサギは孤独である。

『川は流れる』作詞:横井 弘 作曲:桜田誠一 唄:仲宗根美樹(S37.9)

1.
病葉わくらば
今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
黄昏たそがれ
水のまぶしさ

2.
思い出の 橋のたもとに
錆びついた夢のかずかず
ある人は 心つめたく
ある人は 好きで別れて
吹き抜ける
風に泣いてる

3.
ともし灯も 薄い谷間を
ひとすじに 川は流れる
人の世の 塵にまみれて
なお生きる水をみつめて
嘆くまい
明日は明るく

※桜田誠一
北の漁場(北島三郎)、女の駅(大月みやこ)、望郷酒場(千昌夫)
不如帰(ほととぎす)(村上幸子)、あの娘たずねて、りんごの花が咲いていた(佐々木新一)
銀座の蝶(大津美子)、川は流れる(仲宗根美樹)

写真①
写真②
写真③
写真④
写真⑤
写真⑥
写真⑦
写真⑧
写真⑨
写真⑩
写真⑪