(180)・・・書を捨てよ、バイトに出よう・・・

 『書を捨てよ、町へ出よう』が世に出たのは、昭和42年だから、僕が大学1年の終わりごろだった。劇団「天井桟敷」の寺山修司は、これを手始めに、鋭利な言葉で若者のはらわたをえぐり続けた。大学は、封鎖やデモに明け暮れ、当時の学生たちは、何かに駆り立てられるように走っていた。

自分はと言えば、まずは神戸という街に馴染めず、熱に浮かれた時代にも違和感があり、1,2年時のほとんどを下宿に引きこもって暮らした。貧乏学生だったから、アルバイトはよくやった。仕送りがあっても、あっという間にパチンコに消えてしまうから、食うために必死だった。最後は、仕送りも拒否したから、5年生時はまるまる学校には行かず、看板屋に勤めた。

元町の花隈駅近くにある「第一工芸」。一部の幹部以外は、同年齢又は年下も多く、20人余りの若い集団だった。最初は、廃棄物の片づけをやるのが、アルバイトの仕事だった。そこで、ゴミ捨て場を自分で改修して、ベニヤ、木材、紙類などと仕分けできるように工夫した。

当時は、切り抜きの当て紙で型を取り、手書きで書いていた時代。アルバイトの癖に、「あゝしたらええ」とか、「こっちの方が目立つぞな」とか口出ししていたら、結構面白がられて、終いには、「りゅうちゃん、これでええじゃろか?」と職人が聞いて来るようになった。今から考えれば、図々しいにもほどがある。

そごうや大丸の看板の付け替えは、デパートの閉店後に入って、早朝までに終える。徹夜に強かったから、これまた重宝された。休憩時間には、売り物の高級アイスクリームをちょろまかして頂くのが、楽しみだった。

夏には、社員全員で日本海側の海水浴場まで、車10台ほどで出かけた。その班分け、日程、車列の調整も任された。マネージャー業が向いていたのかも知れない。最後には、「もう大学辞めて、うちに来いや」と言われるくらい、自分には相性の良い仕事だった。

もちろん、定番の家庭教師もやった。小学6年の寿司屋の息子。勉強するより遊びたくてたまらんらしい。成績は、どげじゃったけん、みるみる上昇して、喜ばれた。70点取ったら…とか、80点取ったらとかで、約束ばかりしたから、別の日に映画を見に連れ出したり、大阪まで遊びに行ったり…ご褒美作戦が大変だった。
ここの場合は、勉強が終わったら、豪勢な寿司が出たので、貧乏学生にはたまらんかったわい。あんな寿司は、その後とうとう食べたことが無い。

あとは、甲子園のカチ割り(氷)の売り子や、万博関連の土方(阪神高速道路)をすることが多かった。珍しいものでは、神戸港のウォッチマン。荷揚げ作業の際に、高級時計や宝飾品を荷抜きする奴が居るので、その見張りである。バイトの雇い主は、山口組。荷下ろし作業をするのも、多くは、山口組のチンピラたち。見張れ!と言われても、見つけても、どうにもならない。「兄ちゃん、何も見んかったやろな!」とすごまれるから、言い付けることもできない。しまいに、海に沈められたら大変じゃ思て、すぐに辞めたがな。

夜の街のビラ配りもやった。要するに、キャバレーなどの呼び込みである。これも、「ここはうちのシマじゃけ、あっち行け」などとイザコザが絶えなかった。逆に、「兄ちゃん、うちに飲みにお出でぇな」と、店の女の子に引っ張られたり、抵抗して断っていると、「うちの女の子に何すんねん」と、用心棒に絡まれるは、もう散々だった。

次は、尼崎にあった理容美容学校の解剖学講師。代々、医学生がやっていたものである。授業なんか、聞いとりゃせんけん、毎回、ミニテストばかり出した。「これだけ覚えとったら、他は勉強せんでもええぞな」と言って、残りの時間は、花札を教えたり、手品をやったりして、時間をつぶした。あの悪ガキたちが、授業の終了日には、涙を流して寄せ書きを呉れたのだが、ええ散髪屋になったじゃろうかのう?

色々やったが、やはり医学生のバイトとしては、「売血センター」の予診係である。「昨日も抜いとるがな。今日はダメぞな」「そんな固いこと言わんと、わし今日の飯代がないんじゃが」「どうせ、昨日の金を、パチンコですったんじゃろ?」「もう、今日こそパチンコはやめるけん、抜いてぇな」…こんなやり取りばかりである。酒飲んで凄むやつも居るし、座り込んで帰らん奴も居る。神戸の下町、貧困層のひずみが、当時の売血センターにあった。

その後、売血による輸血から発生した輸血後肝炎が社会問題となり、血液事業正常化への第一歩ともいうべき「黄色い血」追放キャンペーンが始まることになる。売血常習者の血液は、たび重なる売血行為により、血球部分が少なく黄色い血漿部分が目立ち、「黄色い血」と呼ばれた。この血液は、輸血しても効果が無いうえに、輸血後肝炎などの副作用を起こしがちで、売血が社会問題になり、昭和44年に無くなった。(→現行の輸血事業へ)

 その他、ゴミ集め(段ボール屋)とか、アンケート集めとか、交通整理とか、あらゆるアルバイトをやった。最後は、乞食にまで挑戦したけど、土地の親分に「見込みがないけん、学校に帰れ」と説教され、2泊3日でやめてしまった。甘い、甘い。

受験学校から医学部に進み、そのまま医者になる一本道。23歳から、「先生」と呼ばれる異常な世界。まともな奴が育つ訳無いがな。

医者は、医者以外に生きる道が無い、究極の世間知らずである。だから、アルバイトでもしなければ、世の中など何も知らないまま医者になってしまうだろう。
それでも親しい患者からは、今もしょっちゅう言われている。「りゅうさんは、所詮、ぼんぼんじゃのう」

(出典:イラストAC