(90)・・・座敷牢・・・

座敷牢は、江戸時代からあって、1900年(明治33年)に、精神病者監護法により法的に認められて、「私宅監置」が公認されるまでの名称である。1950年(昭和25年)の精神衛生法により、「私宅監置」も無くなった(はずだった)。

現実には、座敷牢は、昭和50年代末期まで続いたのだ。法的に認められた「私宅監置」であろうがあるまいが、その実態は残酷そのものであり、木の格子の中で、足を鎖に繋がれた人も何人か見たことがある。粗末な食事で痩せこけていて、風呂に入ることも無かっただろう。

私宅監置は、長年警察の管轄であって、分かりやすく言えば、治安対策でしかなかった。おそらく、生産性を云々されるまでは、昔の精神病者はまだ世間に許容されていた。「働かざる者食うべからず」という聖書の言葉は、罪が深い。後々、キリスト教徒は、「働けるのに働かない人と、働けない人は違う」という解釈を付け加えた。ソビエトのレーニン憲法でも、「その能力に応じて働くことが義務である」としたが、実態としては、働けない精神病者の多くは、邪魔者扱いをされ、収容所に入れられた。

神戸時代には、裏六甲から篠山まで、座敷牢を何件か往診をし、病院への収容を手伝った。松山に帰った後も、上浮穴郡や中山、砥部、松前などに、何件か往診(収容)した。こちらは、救出に行くつもりで出かけたが、実際は強い拒否に遭い、なかなか思うように行かなかった。

「ここから出たら、風呂にも入れるし、散歩も出来るぞな」「いやじゃ!」
心を病んだ上に、辛い拘禁生活を経て、何もかも怖かっただろう。誰を信じたらいいのか、それも分からなかったはずである。

救出に出かけたはずが、心の重い仕事だった。家族も、世間の目を恐れ、秘密の生活を送りながら、複雑な気持ちだったろう。そして、病院に収容された人たちが、どんな処遇を受けただろうか?あの頃の精神病院は、二重の格子に仕切られ、薬も拒むことが出来ず、部屋の掃除などの労役が多くて、逆らうと、看護師に焼きを入れられた。

幸いにして、自分の関わった人たちは、特に最後の5人は、その後社会に出ることが出来た。最後の一人(女性)は、味酒診療所時代の往診だった。「姫」の愛称で呼ばれ、患者会ごかいの仲間になり、愛猫と静かに暮らせたのは救いだった。

座敷牢的なものは。長く精神病院内に残り続けた。そして、「新薬」の登場や「訪問看護」だのACTが登場して、今は、街で暮らせる代わりに、見廻り組(訪問看護)が居て、大量処方の服薬チェックが行き届いている、まるで「現代的な座敷牢」、「化学的座敷牢」の時代になったようである。患者を食い物にする精神医療というやつは、どこまでも狡猾であり、残酷である。

(出典:イラストAC