(72)・・・松山精神病院・・・
昔のことを書くのは、かなり痛みを伴う。反省、懺悔、挫折、若気の至り…どんな言葉を並べても、正直思い出したくない。しかし、自分の総括のために始めたブログだから、避けて通れないことも分かっている。
医局の支配や神戸の精神病院がいやになり、高校時代の友達のお母さんが、看護師をしていた松山精神病院(現、松山記念病院)に入れてもらった。昭和49年の4月、26歳だった。問題意識も希薄で、理念も何もなく、ただ田舎でのんびりやれる…そんな感覚だったと思う。
870床の古色蒼然とした病院は、地元では「脳病院」と呼ばれ、前のバス停も「脳病院前」という時代だった。自分が、小学校3年の時に連れて来られた病院に就職するのも、中学高校のすぐ近くと言うのも、因縁が多かった。おまけに、その頃以前は、愛光学園と松山精神病院は、同じ法人?であり、理事が兼任していたこともある。
書くことがあまりに多く、何から書いていいのか混乱する。高校時代にクラスから消えた同級生が、慢性病棟に暮らしていたし、多くの先輩にも出会った。「あそこ(愛光)で、患者を作って、ここに隠すんやな」と、素直に思ったものだった。
電気ショック療法が極めて多かった。僕自身も、躊躇なくやっていた。副院長は、ロボトミーの手術数を自慢にしていて、世間の風向きから、S48年に終了したが、「これをさせて貰えば、病棟が静かになるのに…」といつも不満顔だった。
腕に根性焼きがある患者が多く、「なんでや?」と看護師に聞くと、「あれでおとなしくなるんぞな」。各病棟の看護主任の権限が強く、薬の増量や注射、電気など、実際的には、看護主任が決めていた。なにしろ、80歳台の院長を除けば、5人の常勤医師が居るだけで、「こうすりゃ、医局もラクじゃろがな」と言う始末。
若輩者だが、外来は週3回、入院患者は、200人を受け持つことになった。当時は、院長が一筆書けば、精神鑑定医(今の、精神保健指定医)に成れたので、すぐさま鑑定医にされた。「これで、当直の時、措置入院を受けれるじゃろが」という具合。
それから、「めんどい患者はお前が見い。勉強になるけんな」という調子で、当時の厄介者(ほとんどが、覚せい剤やアルコール、シンナーなどの中毒)をあれこれと任されたし、往診依頼(当時は、収容依頼)があれば、松山市内はもちろん、郡部にも山の中にも出かけた。若い組員の依頼で、覚せい剤中毒の組長宅に踏み込んだことも一度ならず。若い引きこもり青年とか、キツネが憑いた主婦、座敷牢に居たおっさんなど、あらゆる往診をやった。当然ながら、バットや包丁で反撃され、軽いけがは絶えなかったが、幸いそれ以上のことにはならなかった。
ひどい医療内容だったが、電気はやっても、不思議と大量の薬漬けはやっていなかった。保護室病棟というのがあって、一つか二つ、窓も無い真っ暗の保護室(=牢獄)があり、あまりに反抗的な人が、懲罰として入れられていた。のちに救出される加藤真一さんも、この頃ここに閉じ込められていたが、当時は存在も知らなかった。その後、8年経って救出され、「患者会ごかい」で随分お世話になった。彼は、保護室の窓から、入ってくる猫に手紙を括り付け、それを繰り返し放っていた。その手紙が、奇跡的にごかいに届き、当時の医局長が、「何の病気もないのに入院させて、申し訳ありませんでした」と謝罪して、解放に繋がったのである。不屈の人だった。
そんな日々だったが、暇な時間も多く、看護師たちと野球ばかりしていた。有給休暇が多くて、放っておいても看護師たちが全てをやってくれる。先輩医師たちは、5時になると。キャバレーに繰り出し、二日酔いで遅刻すると、代わりに外来を頼まれた。
どこでどう火が付いたのか思い出せない。患者の金を事務所で管理していたが、膨大な利息があっさりと消えたり、電気治療で何人かが事故死したり、勤務中に看護師が競輪に出かけたりしていたが、始めは、こんなものかと漠然と眺めていた。とにかく、半世紀近くも前の事なので、何かは思い出せないが、どこかで火がついてしまった。
それからは、「こんなん病院じゃないぞな」「こんなんじゃ恥ずかしゅうていかんぜ」と、病院中を説いて回り、看護長、婦長から、入りたての若手まで追いかけ、毎日熱弁を振るい、改革案を議論した。
病院を変えれなくても、病棟ごとなら可能だろうと思い、病棟主治医制にして、医師が直接に病棟運営に関わることを目指したのだ。毎夜毎夜のオルグで、あちこちの病棟主任から賛同を貰った。医者たちは、忙しくなるのが嫌で、知らん顔をしていた。
そして、拡大病院会議が開かれ、威勢よく提案者に立った僕は、意気揚々と熱弁を振るい、多数決を待った…のだが、挙手!という議長の声に手を挙げたのは、自分だけだった。こうやって、青二才は一敗血にまみれた。
それから、病院中が敵になり、仕事も無くなって追い詰められ、医局会で、「老院長の引退を提案し、道連れに自分も辞める」と宣言して、辞表を書いた。運悪いことに、この老院長は、僕の提案を受け入れて、辞めたのは良かったが、すぐに癌が見つかり、数か月で死んでしまった。当然ながら、「笠が殺した」ということになり、脅迫状が何通も届く日々だった。
当時の若手看護師は、同年齢でもあり、陰で賛同してくれていたが、非力な連中には、立ち上がるすべはなかった。しかし、数年後には、「愛媛精神医療有志の会」結成に加わってくれたり、次の堀江病院を世話してくれたり、その後、「保安処分に反対する愛媛百人委員会」結成まで、いつも応援してくれた。今も、生き残っている連中とは、会えば、昔話に花が咲く。
精神病院ムラには、外と内があり、所詮は「よそ者」の若造が相手にされるはずもない。実際に、多くの医者は腰掛であり、今に至るまで、ここを出た医者たちのクリニックが、松山という狭い町に、乱立している。むべなるかな。やんぬるかな。