(101)・・・ブラクジラ・・・
昔、理科の選択科目では、物理、化学が苦手だったので、地学と生物を選んだ。医学部入試においては、生物はあまり含まれず、物理、化学がほとんどだったので困ったが、たまたま神戸大学だけは、生物も選択可だった。
ブラタモリを見ることがあって、自分の地学を少し思い出している。50年以上も前の事なので、タモリには勝てない。しかし、街を走っていると、店や看板よりも、地形が気になって仕方がない。
松山は、重信川と石手川の「三角州」に、小さな「扇状地」が合わさって出来た街で、道後(松山)平野という。「平野」と言っても、愛媛は「山地」「盆地」が多く、他に、道前平野、新居浜平野があるくらい。
何もないはずの平野の真ん中に、ぽつんと城山(132m)がある。本当は、(今でも)勝山という山名であり、街も、関ヶ原以前は、勝山と呼ばれていた。勝山は、元々二つ並んでいて、その間を埋めて一つの山にしたものであり、その事業をやった足立重信の名前が、重信川の名に残っている。真ん中の埋めた跡に、深い深い井戸があり、今も残っている。
北と西に瀬戸内海があって、東に高縄山系、南に四国山脈がある。この二つの「山脈」によって、台風が来ても、風が吹かない。瀬戸内海の「沿岸流」は、「砂浜」を作り、風早海岸、和気浜、新川、五色浜が並び、遠くは双海海岸(日本の夕陽百選)に続いている。
ついでながら、「砂浜」が丘になったら、「砂丘」(鳥取砂丘etc)、海に突き出たら「砂嘴」(野付半島etc)、それが、陸に届いたら、砂州(天橋立)。二本で囲んだものは、八郎潟。砂州に囲まれた湖は、「潟湖」(浜名湖や中海)。沖合の島に届いたら、「陸繋砂州」(江の島、函館、潮岬、志賀島etc)である。
潟湖は、もともと塩水だが、塩水淡水半々になると「汽水湖」と言われ、サロマ湖や宍道湖が有名である。
松山から脱線しとるぞなもし。
市内には、溜め池が多いが、それは雨が少ない為である。お隣の香川が、大きな溜め池(満濃池など)で有名である。しかし、その溜め池も徐々に埋め立てられ、宅地化していて、「湖沼」というものが無い地域である。
平野なのに、勝山以外に山がある。伊予松山三山といって、星岡山、東山、天山で、どれも50mくらいの小山である。天山に至っては、宅地化で消えてしまいそうだ。
それにしても、平野の真ん中に、なんで、こういう山があるのか?それは、古墳の跡であり、弥生時代以降の墳墓に木が生い茂って、山になった。東山古墳、星が丘古墳などは、公園になっている。
大和三山は、天香具山、畝傍山、耳成山の事だが、それらはきちんと三角形になっていて、これこそ、大きな古墳跡らしい。空から落ちて来た山の半分が、天香具山になり、半分が天山になったそうだ。
(「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山
」…持統天皇)
東山があるのだから…そうそう、北山も西山もある。その間に、衣山や久万ノ台がある。いずれも、古墳の跡であり、衣山に住んでいた時は、家を建てるごとに、発掘が行われていた。
北山の東隣に、同じ名前の東山がもう一つあって、北山、東山ともに、三津地方の町名に残っている。では、西山は…?はい、松山総合公園(大峰が台;126m)があるが、我々年寄りは、西山としか呼ばない。そのてっぺんに、姉妹都市フライブルグ(ドイツ)を模して、けったいな展望台があるが、未だに街には馴染んでいない。
この西山も、遺跡の発掘が進み、墳墓の跡が判明している。余談だが、城山と西山を結ぶ東西一直線上に、味酒心療内科がある。
このように、道後平野の小さな山々は、古墳の跡ばかりであって、自然の山ではないらしい。なので、調査が出来ていないが、勝山(お城山)も古墳跡ではないかと、一人考えている。
最後に、タモリが大好きな「断層」であるが、中央構造線が愛媛を横切っていて、砥部には衝上断層がむき出しになっている。その名の通り、二つのプレートが衝き上げて重なった場所である。
そんな場所だから、非常に大きな圧により、きめ細かな土から砥石(伊予砥)が生まれ、古代から鉄器文化を支え、奈良時代の菩薩像なども伊予砥で作られた。そんな伊予砥のきめ細やかな屑から、白い磁器が出来た(→砥部焼)。
おバカなことに、この中央構造線の上に、伊方原発が建っている。慶長地震では、15mの津波が起こっており(四国電力の想定は、14m以下)、今後の直下型地震では、マグニチユード9.0が予想されている。当時の白石春樹知事は、やくざが知事になったような男だったが、金でも握らされたのだろう…未来に対する大犯罪を犯したことになる。