(169)・・・ブラクジラ<鹿島>・・・
後期高齢者記念に、どこぞに行こうと考えた。忽那諸島の一つであり、陸地から最も近いのが、鹿島である。
今は松山市だが、元は北条市。そして、その昔は風早郡だった。4世紀の大和朝廷は、国造を各地において(今なら、県庁みたいなもの)、地方を治めた。愛媛県内だと、伊余国造(松前)の伊予神社。祭神は、愛比売命。ここから、愛媛という名が生まれた。久味(久米)国造の日浅八幡神社。小市(越智)国造の大山祇神社(大三島)。怒麻(野間)国造の野間神社。そして、風早の國津比古命神社の5つである。
つまり、大三島、今治、久米、松前、北条が昔の中心地だったから、松山は片田舎だったらしい。
風早(北条)には、高縄山があって、そこから立岩川が流れ、扇状地を形成している。高輪山系は、花崗岩だから、水にも風化にも弱く、すぐに土や砂地になる。ところが、腰折山、恵良山、鹿島だけは、花崗岩の上に強固な安山岩がヘルメットのようにかぶさっていて、浸食を受けにくい。涙の雫のような鹿島の姿は、讃岐七富士(香川)とそっくりであり、2000万年前の同じ地層らしい。
昔は、手漕ぎ船(伝馬船)。今は、渡船により、わずか3分で渡れるのだが、五月晴れで、潮風も心地よい。船着き場の藤棚近くに、渥美清と早坂暁の句碑が、寄り添うように建っている。
「お遍路や 一列になり 虹の中」(渥美清)
「昭和とは どんな眺めぞ 花遍路」(早坂暁)
偶然、この日は鹿島祭りだったので、いつも以上に人出が多く、前日からのキャンプ組も、10数組あった。あちこちに焼肉の香りがして、腹が減ったのう…。
名物の櫂練の他、伊予二見の大注連縄張替(→コロナで中止)や獅子舞、神輿渡御などが行われる(らしい)。最も嬉しかったのは、「風早バンドtheよもだーず」である。45年前に、僕がソフトボールチームに付けた名前が残っていたのだ☆(センスがええのう)
それはともかく、あんなに小さな島が、無茶苦茶に大きく感じた。昔は、10分ちょっとで1周出来たのに、今は辛くて辛くて、何もせずどこにも行けず、鹿(野生のキュウシュウジカ)の顔だけ見て帰って来た。頂上の展望台に登れば、圧巻の景色だろうが、河野水軍がここを海城にした意味が分かるような急斜面である。
誰も居ない時間に行って、催しが始まる前に帰る。船着き場のおじさんが、「もう帰るんかな?」と、ビックリするのも当たり前じゃ。ほじゃけど、これで十分ぞな。へとへとじゃ~☆
(海の青と五月晴れの青…これこそ、両方共に本当の青である)