(80)・・・タコマート・・・
いつも行き当たりばったりで、どこか投げやりな生き方は、堀江病院を辞めた時も同じだった。もう、「めんどいやつ(厄介者)」という風評が流れて、県内に僕を雇う病院など無かった。「食うていけりゃ何でもやろう」…と、同時に辞めたPSWの谷本圭吾君と、あれこれ考えた。しかし、医療職以外にやったことが無い世間知らずに、甘い世の中ではない。
どこでそうなったか忘れたが、流しのたこ焼き屋をやろうということになり、早速、中古のホンダストリートバンを買い、自分たちで真っ赤に塗装し直した。さて、名前は何にしよう?名前は大事ぞな…いっぺんで覚えてもらわにゃいかんけんな。
街を走りながら、スーパーなどの看板を見て、「フジたこ」「マルたこ」「たこしまや」「たこ花」「たこチャンピオン」…どれもいかんいかん、もっとええ名前は無いんかのう?
その時、スーパー「ハトマート」の前を通りかかって、「ほうじゃ、タコマートじゃ!」
師匠は、当時の患者に「たこ焼きけいちゃん」が居て、1から教えてもらった。お好み焼き「ボロ店」のおばさんにも、粉の混ぜ方から教わった。こうして、華々しく?デビューしたタコマートだったが、ここでも世間の辛さを味わうことになる。
売れそうな場所を探して売っていても、こわいお兄さんがやって来て、「親分に挨拶を通せ」という。シマがあって、皆が分け合っているのだから、当然と言えば当然のこと。停まらずに、流しているなら、どこでも構わん…らしくて、結局流しまくることになる。
自製のタコマートの音楽を流し、子どもにはクジを引いてもらった。売れない日には、松山精神病院や堀江病院に行き、門前の公道で待っていれば、皆が知り合いなので、行列が出来た。焼くのは、器用な谷本君ばかりで、僕は、口上と問診をやっていた。
そんな数か月、一人の分け前は¥30万近くになった。暇な時間は、田んぼの草むらに寝転んで、雲が流れていくのを眺めながら、「誰にも縛られんのはええのう」。市内のどこに行っても、知り合いの患者が居たので、「よう元気かぁ?」「幻聴はどうぞな?」などと、往診も兼ねていたのだが、皆が気を遣って、「たこ焼きを買おわい」と言うので、「こりゃ、いかんぞな」
そんな日が延々と続くとも思えず、しかし、続くのもまた良し。なるようにならい…どうせ生まれたときは裸じゃし、死んでいくのも裸じゃがな…。思えば、31歳の自分は、若くて元気だった。
そんな珍妙な日々は、突然に終わった。味酒診療所の医者が年老いて、後釜を探している、良かったら、手伝わんかな?ここに繋いでくれたのは、松山精神病院の看護師たちだった。
当時の診療所は、内科小児科漢方科。院長は、酒に溺れて休みがち。入院ベッド(19床)があったが、5人くらい。外来患者も一日に5~10人だから、こりゃ今にも潰れそうじゃ。
ここから、35年にわたる有床診療所の激闘が始まることになる。