(85)・・・SST・・・
群馬大において、臺弘教授、江熊助教授のグループ(後輩に、小坂英世、中澤正夫)が、盛んに「生活臨床」を唱え、その流れは、今もまだ地域のクリニックにも残っている。独自の理論による精神療法の拡大版だが、内実は拡散し、分解し、生活指導(→作業療法)と変わらなくなった。
彼ら、日共グループの思想には、「適応のための訓練」という考えがあると、新左翼グループは批判した。それには大いに同意する。日共系は、ひたすら「科学的」という観念を妄信し(マルクス主義者の欠陥)、「治す」ことにこだわった。いわゆる「積極的治療主義」であり、なりふり構わぬ大量処方から、臺弘のロボトミー人体実験(松沢病院)にまで行き着いた。
彼らの目指した、患者の社会適応とは、「ベッドの大きさによって、体の縮こませ方を変える」ことを学ばせるのだが、反対論は、「ベッドの大きさを変えよう」という思想である。生活臨床派は、「病者」は、いろ、かね、めいよのどれかに弱いから、そこを見極めて、生活指導をするという思想があり、「そんなもん、健常者も同じじゃわい」と批判された。
残念ながら、前者は、安直な社会復帰運動に繋がり、長野や群馬の保健婦活動や、「やどかりの里」(埼玉)も、その影響下に生まれた。一方、生活臨床批判派の新左翼系の医者たちは、政治闘争や学会闘争には熱心だったが、現実には、放ったらかし医療になって(ぶらぶら開放)、臨床的な実践が、開放化以外に何もなされなかった。後に分かったことだが、彼らの開放的精神医療は、意外な大量処方に支えられていた。その影は、「ぺテルの家」や岡山の映画「精神」にも見られ、「化学的拘束」に過ぎなかったのだ。(笠陽一郎にも同じ時代があったことを自己批判したい)。
放ったらかしVS訓練という極端な図式は不幸であるが、その総括がなされぬまま、今はSST(Social Skills Training)「社会生活技能訓練」が主流になっている。SSTのベースになっている「認知行動療法」は、今や、大野裕教祖様の「教義」になっているが、あの男には、歴史的総括を考える脳など無いだろう。
人格障害概念や電気ショック療法が、いつの間にか再生したように、歴史修正主義者は、精神医療界にも沢山巣食っている。(※歴史修正主義者とは…過去の戦争犯罪は無かった、侵略も従軍慰安婦も、全て無かったことだと主張する。安倍晋三や百田尚樹、櫻井よしこなどの偏狭右翼たちのこと)。
1994年に診療報酬点数化に伴い、ゼニカネに鋭い連中は、屍肉に群がるハイエナのように、このSSTに飛びついたのだ。長期入院から、短期入院。保健婦活動から、訪問看護の点数化。デイケアやSSTの点数化。病者は、どこに居ても、生涯にわたり「飯のタネ」となった。
SSTや認知行動療法が、全て丸ごと「悪」だとは思わない。しかし、点数化して普及させるほど大したものでもない。だから、「やったふり」の銭もうけがはびこるのだ。こんな結末は、火を見るより明らかだったが、もう「時すでに遅し」である。
僕に言わせれば、町医者の矜持として、且つ診療習慣として、往診や「生活臨床」や「認知行動療法」などは、日常診療の中に普通にあるべきだし、往診などは特別なことではなかった。また、これらは患者会の中に当たり前のように存在して、毎日のミーティングは、「治療共同体」そのものであり、昨今流行りの「オープンダイアローグ」など、日常的に存在していたのだ。違うのは、患者会では、ピラミッドの上から、「医者先生の指示、教示」など邪魔なことと、「言葉」はそれほど重要ではなかったことだろう。
余談だが、臺弘人体実験批判は、当時の東大精医蓮闘争(赤レンガ闘争)や安田講堂闘争とも繋がり、その中心人物の一人、宇都宮泰英医師は、帰郷して松山精神病院に入局し、後に医局長になった。当時は、共闘関係にあり、随分と支えてもらったが、徐々に変節し、「死に体」の臺弘を講演会に招請して、再生させ、僕とは訣別した。
繰り返し言いたい。治療があって、そこから人間的信頼関係が生まれるんじゃなく、人間的関係性の中から、ようやく治療的なものが生まれるのだ。
もう一つ、いつもの繰り返しだが、これらの論争や闘争は、「精神分裂病」を軸にしたものであり、そのほとんどが誤診であって、発達障害者の艱難辛苦の歴史だったことについて、精神医療業界は、未だに病識を持てていない。