雑言集…(048)【ふるさと】

我ながら、愛郷心や愛校心が強いと自覚している。
しかし、愛国主義者ではない。

松山から全く離れないが、
島国根性や田舎的排他気質を
批判し続けているから、
好きなんやら嫌いなんやら💦

外から見たら、何の変哲もない我がふるさと。
まさに年寄りらしく、
懐古趣味に浸りながら、
独りごつことにしよう。

①沿革:温泉郡和気村から、
松山市和気町になった。
予讃線松山駅から、
三津浜、伊予和気、堀江…と、今治に向かう。

堀江は、国鉄仁堀航路(仁方~堀江)と
阿賀~堀江フェリーが、
戦前より賑わった。
三津浜は、別府、広島、神戸などへの海路の要衝として、
江戸時代から繁栄する。

幸か不幸か、和気には何にも無かった。

②地勢:東に高縄山系、
西に経ヶ森に挟まれ、
北は斎灘(いつきなだ)に面して、
白砂青松の和気浜が広がる。
南は、石鎚山系四国山脈だから、
風も雨も少なかった。

南に向かい、広々とした田園地帯が続き、
今住んでいる山越(やまごえ)を境に
市街地に入る。

額田王や聖徳太子が来た頃は、
和気は内港(熟田津:にぎたつ)の湾の底。
山越あたりが上陸地。
道後は、「白鷺の湯」と言われるが、
2000年経った今でも、
毎日のように白鷺が近所を飛んでいる。

道後から大川が東に、
衣山(久万ノ台)から久万川か西に流れる。
溜池や沼が多かった。
大渕と長渕に湧水あり。
水冷たく泳げなかった。

和気小学校 校歌

③集落:和気駅、53番札所の円明寺、
商店と伊予絣の1丁目。

漁村の2丁目。
52番札所の宿場町、太山寺。
八幡(はちまん)神社とみかん山の勝岡など、
いくつかの集落があった。

勝岡八幡は、
秋祭りの宮出し、宮入りで賑わい、
村ごとの赤、青、黄色の神輿が出る。
同色のふんどしを締めた担ぎ手が
参道を走るのが無形文化財になっているが、
どんどん寂れている。

当時昭和20年代は、
いずこも「赤貧洗うがごとし」。
ベビーブームの我々が、
小学校に行く昭和30年になって、
町に生気が蘇る。

④暮らし:当時の町並みを思い出せる。
皆が生きるのに必死だった様子が分かる。
東から順番に…

製材屋、風呂屋、笠醫院、絣屋(複数)、縫い物屋、八百屋、肉屋、酒屋、貸本屋、炭屋、油屋、鍛冶屋、菓子屋、電気屋、醤油屋、薪屋、大工、タバコ屋、薬屋、毛糸屋、新聞屋、郵便局、端切れ屋、うどん屋、豆腐屋、靴屋、氷屋、ラムネ屋、駐在所、鉄屑屋、自転車屋、映画屋(和気座)
(後に)美容院、化粧品屋、鉄工所、パチンコ屋…
何でも職業になった時代。

映画館は、大政翼賛放送の為に作られ、
嘘ばかりで国民は洗脳された。
戦後は、鞍馬天狗、紅孔雀、笛吹童子…。

下肥を集める肥桶屋(汲み取り屋)もあったし、
天秤棒で、運ぶ専門の担ぎ屋とか、
牛に大八車を引かせる運送屋も始まっていた。

中学以下の女の子は、
背中に弟や妹をおぶり、
高校になると老若男女を問わず、
非常勤の「土方」に出かけた。

子どもらの夏は、パンツ1丁に
ランニングシャツとゴム草履。
皆が皆お寺の境内に集まり、
そこから又、海、山、川に出かける。
冬は、綿入りの伊予絣に
福助の足袋で下駄を履いていた。
走る時は足袋で走り木に登るから、
毎日のように穴が開いた。
継ぎをするから、かなり厚底だった。
膝も肘も継ぎだらけ。
皆が、鼻水を垂らし、袖で拭くから、
ベタベタの汚い服が普通だった。

小遣いなど貰えないから、常にひもじかった。
幼い記憶は、朝昼晩に芋ばかり食べていた。
さつまいも、じゃがいも、さといも…
合間に、麦飯や白米を食っていた。
毎日腹をすかしていて、
子供なりにサバイバルを身につける。

ある時は、漁師の子アツシたちと伝馬船に乗り、
沖の岩礁(中瀬)に出かけた。
アツシは、釣り竿を操り、ヤスデで魚(メバル)を突く。
素潜りで貝(ホタテ)を採り、
ノミで牡蠣を剥がせる。
何も出来ない自分は、
ただ言われた通り、
潮に流されないように、
舟を漕いでいた。
浜焼きして食べた魚や貝の、
旨かったのなんの⤴️

山の子ケンスケは、
しゃしゃぶ、肉桂、すいじ(イタドリ、スカンポ)、砂糖木、フキなどの
秘密の場所を教えてくれた。
酸っぱいもの、臭いもの…
あれでも食った食った💦

昭和22年5月3日、我が誕生日の前日に、
憲法が発布された。
皆が祝杯を挙げて喜び、
子どもに、憲一、憲次、憲介…と名付け、
クラスには「憲」ばかり。
あれほど有り難がった平和憲法に、
手を加えようとする不届き者が、
80年経って、こんなに湧いて出るとは…😱

当時一番豊かだったのは、農家の子どもである。
ケンゾウは、はったい粉や黄粉が出来ると、
皆に一匙ずつ分けてくれた。
パットライス屋が来ると、
米を持ってきて、バクダンを作ってくれる。
ヤギの乳も、奢ってくれたなぁ。

話が脱線したわい。
新築があると、餅まきに行き、必死に餅を集めた。

しかし、主たる収入源は、
鉄屑集めだった。
火事の焼け跡とかに目を付け、磁石で鉄と確認しながら集める。
鉄屑屋のおいさんから、5円とか貰えば、
当分食うには困らない。
駄菓子屋のクジ引きが、1回20銭だった。

一度だけ友達と2人で、
大量の鉄を掘り起こし、
運べないのでリアカーで運んだ。
あの時は、巨万の富を得た気分だった。
見つかると、親に取り上げられるから、
寺の境内にある墓石の下に、
金を分散して隠した。
いつ見つかるか心配で心配で、何度も隠し場所を変えるから、自分でも訳が分からなくなった。
貧乏の方がラクで良い(^_^)

円明寺、太山寺、勝岡八幡があるので、
いつも縁日があった。
護摩講、四万六千日、花祭り、涅槃会(ねはんえ)…
紅茶がタダで飲める日は、
朝から日暮れまで何回も行って、
がぶ飲みし、腹を壊した。
買える時は、水飴を買い、
食べずに舐めて、こねくりまわしていた。
「陽ちゃんは、いでらしいのぉ」
「食うたら、けないけんにや」

17才でふるさとを離れたが、
気持ちは弾まなかった。
医者になりたいという意欲が微塵も無く、
まだジャーナリストに拘っていた。

あの早春の風景、大川の野焼きの香りや、
幻想的な野火の広がりが
未だに昨日の事のようだ。


早春 歌詞

※桜田誠一
「川は流れる」「北の漁場」
「夕日の波止場」「あの娘たずねて」
※横井弘
「あざみの唄」「達者でな」
「川は流れる」「下町の太陽」
「山の吊橋」「東京流れ者」「さよならはダンスの後に」